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揺れ動くウィーンの住居|『バカロレアの哲学』裏メニュー|ウィーンまかない編

今回の哲学問題「われわれはより自由であればより幸せなのだろうか?」

『バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』の裏メニュー「ウィーンまかない編」。本連載では、著者・坂本尚志さんのウィーンでの生活を、実際に出題されたバカロレアの哲学問題と引き合わせて記録していきます。

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朝型生活の罠

 オーストリアの朝は早いです。

 たとえばスーパーは7時過ぎには店を開けます。

 閉店は早いのですが、学校や幼稚園が始まる前にちょっとした買い物ができるのは便利でした。

 子どもがいて夜の外出はほとんどできないせいもありますが、私にとってウィーンは朝型の街です。

 しかしこの朝型の生活パターンのせいで、ウィーン滞在の始めに大きな問題が持ち上がりました。住居にまつわるトラブルです。

 ウィーンの住居は日本で契約を済ませていました。街の中心部に近く、便利な場所にありました。本当は目の前が地下鉄駅なのですが、工事中のため閉鎖されていると説明がありました。その分少し家賃を下げてくれたのでありがたかったです。

 ところがウィーンに着いてみると、家の目の前の道路には地下鉄の新線の掘削工事のために重機がそびえ立っていました。クレーンや掘削機、杭打ち機などがずらりと並び、重機が好きな子どもなら目を輝かせる光景です(「オーストリア人は日本人と同じくらい穴掘りが得意です」とはのちに知人に聞いた言葉ですが説得力がありました)。

 しかし、朝型の街ウィーンでは工事開始が朝の6時です。6時20分ごろから重機がうなりを上げ、二重窓もものともせず騒音が部屋中に響き、石造りの重厚な壁が不気味に震えます。工事終了は午後6時で、その間昼休み以外は騒音と振動が続きます。週末は休みでしたが、それでも早朝に起こされることはストレスでした。冬が迫り、日もだんだんと短くなると、朝6時過ぎはまだ真っ暗です。ライトを煌々と照らして進められる工事の様子を毎日見ていると、気が滅入りました。

地下鉄工事の重機。同じものが家の前で動いていました

敵は管理会社?

 それにしても、こういう状況をよく知っていたはずの住居の管理会社から何の情報もなかったことに腹立たしく思いました。担当者にメールをしたところ、「騒音の感じ方は人それぞれです。嫌なら出ていってください。解約料は特別に無料にしてあげます。」という何の解決にもならない返事が来ました。

 騒音以外にも、テレビで公共放送ORFが映らない、暖房が壊れる、天井(高さ3メートル)の電球が切れたのに1ヶ月近く交換に来ない、火災報知器が月に何回か誤作動して消防隊が点検に来るまで家に入れないなど、問題には事欠きませんでした。何度もメールでやり取りするうちに、クレームを書く英語が上達したような気がします。

最初の部屋の電気。きれいでしたが電球が切れると手も足も出ませんでした

ついに引越し

 真冬(12月)の暖房故障の際には、2週間ほど同じ建物の別の部屋に避難しました。真冬のウィーンで暖房なしというのは生命にかかわる事態です。それが決め手となって引っ越し先を探すことにしました。

 ちょうど友人のドイツ人夫妻が短期滞在していたので、その部屋を見せてもらいました。最初の住居よりはるかに広く、明るく、設備も整っていました。大家さんは一族でその建物の複数の部屋を所有しており、家賃や家電の購入などの要望も聞き入れてくれたので、2021年の大晦日に引っ越しました。帰国まであと8か月を残しての引越しでした。子どもの学校も近く、夜も静かで環境面は非常によくなりました。

新居。騒音と振動がないだけで清々しい気持ちになりました

 大晦日に越した部屋には2か月だけ住みました。暖房も効き、大家さん(学校の先生でした)も初めて部屋を貸すということで細かく住み心地を確かめてくれてとても快適でしたが、契約の関係で3月末に同じ建物の一階上の部屋(最初の部屋の大家さんの義兄所有の物件でした)に引っ越さねばなりませんでした。そこには6か月住みましたが、3階の部屋だったのでさらに日当たりもよく、とても快適に過ごすことができました。

 結局ウィーン滞在中に4軒のアパートに住むことになったわけです。私はもともと引越しが好きではないのですが、スーツケースと若干の荷物を持って移動する生活は、それはそれで楽しかったです。これも地下鉄工事の思わぬ余波と言えるでしょうか。

 地下鉄工事のその後ですが、私たちが帰国するまで重機の種類は変わりながらも、掘削作業は続いていました。聞けば新たな地下鉄路線の開通は2026年ということです。いずれウィーンを再訪した際に乗ることもあるのでしょうが、ウィーンでの住居をめぐる右往左往を思い出さずにはいられない路線になりそうです。

われわれはより自由であればより幸せなのだろうか?

 ウィーンでの住居をめぐる顛末は、自由と幸せに関しての考察とつなげることもできるでしょう。私たちに移動する自由があったからこそ、最終的には快適な暮らしができたことは間違いありません。地下鉄工事の振動と騒音に責めたてられるような家と静かな環境の家を比べて後者を選んだ時、わたしたちには選択の自由がありました。お金や労力もかかったとはいえ、この選択は間違っていなかったと思います。

 幸せとは、欲望が満たされ快楽を感じている状態であると定義できます。引っ越しによって、よりよい住環境を手に入れたいという欲望を満たすことができたために、私たちは幸福になれたということができるでしょう。

 一方、自由とは制約がないこと、あるいは少ないことだと定義できます。鎖につながれている人間とそうでない人間であれば後者の方が自由ですし、子どもよりも大人の方が、行動の選択の幅が広い分より自由であるといえるでしょう(もちろん、個々の状況によって自由の度合いは大きく変わることはいうまでもありません)。

 では、より自由であれば私たちはより幸福になれるのでしょうか。確かに、幸福になるためにどのような欲望を満たすかを思いのままに選べるのであれば、自由は幸福にとって不可欠な条件であるようにも思われます。自分の行動を自分で決定することができなければ、幸福になろうと望むことは困難でしょう。

 しかし、自由であることは必ず幸せを保証するとも言えません。人間は自分の意志で愚かな行為や正しくないことをする行為ができます。それが幸せをもたらすこともあるでしょうが、思わぬ結果を招いたり、うまくいっても良心の呵責にさいなまれたりもします。選択の自由は、わたしたちを幸福へと導くとは必ずしも限りません。

 欲望もまた、幸福にとっての障害となりえます。欲望は一度満たされれば終わりではありません。食事をしても時間が経てば空腹を感じますし、富や名誉、権力の欲望は果てのないものです。自由に欲望を満たすことは、欲望の奴隷になってしまうことでもありえるのです。

 こうした事態を避けるためには、自由と欲望、幸福の関係を整理する必要があるでしょう。幸福になるためにはどのような欲望を、どのように満たすべきでしょうか? 欲望を満たす自由とは制限のないものなのでしょうか、それとも、何らかの制約が課されるべきでしょうか? 欲望に制限を課すことができるものとは何でしょうか、理性でしょうか、それとも他の何かでしょうか? 自由は幸福の前提なのでしょうか、それとも幸福を奪う脅威なのでしょうか? 結局のところ、私たちはより自由であればより幸せなのでしょうか?

 自由と幸福の関係が問題になるのは、私たちの生が予測不可能なものだからでもあります。私たちの選択は、必ずしも幸福をもたらすとは限りません。それでもなお、自由な人間はいくつかの選択肢の中で迷い、どれかに賭けなければなりません。住まいの問題は卑小なことかもしれません。しかし、この卑小さは自由と幸福という大きな問いとも地続きであるのです。

日本実業出版社のnoteです。まだ世に出ていない本の試し読みから日夜闘う編集者の「告白」まで、熱のこもったコンテンツをお届けします。