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「イシャはどこだ!」|『バカロレアの哲学』裏メニュー|ウィーンまかない編

今回の哲学問題:死について考えることなく完全に人間でいられるか

『バカロレアの哲学』の裏メニュー「ウィーンまかない編」。本連載では、著者・坂本尚志さんのウィーンでの生活と、実際に出題されたバカロレアの哲学問題を引き合わせて記録していきます。

 今回は、日本とオーストリアの医療体制の違いについて。

 外国で病気にかかるのは不安なものです。医療制度の違いや治療法の違い、そして何よりも言葉の違いなどもあり、日本の常識が通用するとは限りません。

 私は40代中盤で人並みに持病もあり、日本でもいくつかの薬を飲んでいました。短期であれば日本の主治医に滞在期間分の薬を処方してもらえたのでしょうが、1年ではそうもいきません。薬のストックを切らす前にウィーンでかかりつけ医を探すことになりました。

 しかし、ドイツ語はもちろん、英語でも自分の健康状態について正確に説明できるか自信がありません。ですから、私にとってもっとも身近な外国語であるフランス語を話す医師を探しました。在オーストリアフランス大使館のウェブサイトにはフランス語を話す医師のリストがあります。その中からある一般医にメールを送るとすぐに返信があり、10月はじめに診察予約をとることができました。

ウィーンの開業医

 フランスでもそうですが、こちらの一般医は集合住宅の一室で開業していることが多いです。私が予約した先生もウィーンの昔ながらの建物の1階に診察室を構えていました。

クリニックの入り口

 事前に病歴や飲んでいる薬について書いた文書を準備し、現状を説明しました。オーストリアに来た事情や生活で困っていることなども親身になって聞いてもらえました。

 その頃、ワクチン接種証明書をヨーロッパのものに切り替えることができず困っていたのですが、すぐに手続き方法を教えてくれました。ワクチン接種の情報を国のネットワークに医師が入力し、その上で電子認証を行うと、政府のウェブサイトから証明書がダウンロードできる、という仕組みでした。

 EU外の接種証明書を切り替える手続きは当時それほど一般的でなく、インターネットにも情報がなかったため、保健所等に問い合わせても門前払いのような状態でした。非ドイツ語話者の患者も多い先生だったので慣れていたようです。口コミ情報の威力を感じました。

医療体制の違い―薬、検査

 薬もほぼ同じものを処方してもらうことができました。しかし、毎日1錠10㎎飲んでいるある薬が問題になりました。なぜならオーストリアでは80㎎か160㎎のものしか入手できなかったからです。

 結局血液検査の数値に問題がなかったら飲まなくてもいいだろうということになり、検査依頼書を書いてもらいました。一般医では基本的にレントゲンや血液検査は行いません。検査専門のラボに行って検査を受け、結果を改めて持っていく、という手続きをとります。検査機関を集約するというのは効率がよいのでしょうが、煩雑でもあります。院内で検査ができることの多い日本とは違う点です。

 患者にとってはすべて一か所で済む方が便利でしょうが、医療費の面からはこうして資源を集中させた方が効率的なのかもしれません。しかし、高齢者や障害を持つ人々にとっては、診療と検査が分離されている方式は負担が大きいようにも思われます。また、仮に一般医の診察で重大な病気が見つかった場合には、専門医を受診することになりますが、進行が早い疾患の場合は手遅れになることもあるでしょう。

 オーストリアの場合は、提供可能な医療サービスの水準はここまで、という社会的、制度的線引きが明確になされているということなのかもしれません。検査結果を確認して、問題の薬は飲まないことになりました。それ以外の薬は処方箋を持って行って薬局で購入します。

1782年創業の薬局

 こちらの薬局では日本のように必要な日数分だけ調剤するのではなく、パッケージのままで渡されます。たとえば10回分だけ必要な薬も、20回で一箱であれば一箱購入しないといけません。保険でカバーされるとはいえ、薬が余ってしまうのはもったいない気がします。

 診察費の支払いですが、私のかかりつけ医のところでは現金か銀行振込でした。カードが使える一般医もあるようですが、私はネットバンキングから送金していました。

ワクチンは薬局で

 最後に、日本との違いのもう一つの例として、予防接種を挙げておきましょう。

 ドイツからシベリアにかけての一帯では、マダニが媒介する脳炎が流行することがあります。重篤な場合死に至ることもあり、重度の後遺症も懸念されます。ですから、マダニ脳炎ワクチン接種が推奨されています。

 日本で既に2回接種を終えていて、ウィーンではかかりつけ医のところで3回目を受けることになっていました。ワクチンは薬局に行って自分で購入し、医師のところへ持っていかねばなりません。購入から接種までの間は自宅の冷蔵庫で保管します。

マダニ脳炎ワクチン

 この仕組みでも、検査と同じく患者側が動かねばなりません。自分の健康には自分で責任を持て、ということかもしれません。慣れない身としては持ち運びにも少し緊張しましたが、ある意味では貴重な体験ではありました。

死について考えることなく完全に人間でいられるか

 健康のトラブルにはいろいろな原因があり、その重大性もさまざまです。しかし、病気や怪我は、時としてわたしたちの存在それ自体を脅かすものです。特にそれが重篤なものであれば、わたしたちは死を意識することでしょう。

 死について考えることは快いことではないことがほとんどです。それは自分の存在の消滅や、あるいは自分の身近な死が取り返しのつかない喪失を意味します。死について考えること、死に直面することは避けたいと考える人も多いでしょう。

 しかしその一方で、人間は、そして生物は死ぬことを運命づけられています。しかも、人間は自分がいつか死ぬことを知っていて、その死について考えることができる存在です。この「死について考える」能力は、人間固有のものです。つまり、人間的であるということは死を意識するということにほかなりません。

 そうであるならば、死について考えないことは人間的ではないのでしょうか。確かに死はすべての人間にとっての終着点であるとしても、常にそれを心の片隅に置いて生きることは、人生の喜びや楽しみを損なうことにならないでしょうか。あるいは、死ではなく不死を、消滅ではなく不滅を追究するということもできるでしょう。宗教や芸術作品には、そうした不滅の存在を垣間見せる役割を持つものもあります。死を避けることもまた、一つの創造の可能性なのです。

 死はこうして人間の生に限界と可能性を投げかけます。そもそも死とはなんでしょうか。それは単なる生物学的な活動の終わりなのでしょうか。それとも、それとは異なるレベルでの死も考えることができるのでしょうか。問題文には「完全に」という言葉があります。「完全に」人間的であるとはどういうことでしょうか。死について考えることが人間を完成させるということでしょうか。なぜ、死について考えることが人間を完成させるのでしょうか。言い換えるなら、死について考えないことは、どのような意味で完全に人間的であることを妨げるのでしょうか。

 死は生の対極でありながら、生を意味づけるものでもあります。このようなどっちつかずの概念を考えることは難しいものです。しかし、人間の生それ自体が色分けできない複雑な要素からなっているのですから、死を考えることは生を考えるための訓練であるのかもしれません。病はそうした死を考えるための、一つの重要な入口でもあります。






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