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売られたヤクザ その17

 「奥さん」
呼び止められて、山口は振り返った。奥さん、落ちたわよ。通りがかった奥さんが、大理石調の床に落ちたスカーフを指して言った。
「スミマセン」
青戸万里子は、脚を揃えてしゃがみ、太ももの間に手を添えてそれを拾った。
「奥さんだって」
あらためて彼女は山口の腕を取った。ノースリブの、体の線に張り付くワンピースとハイヒール。山口の額は、彼女の視線とほぼ同じ位置にあった。万里子はスカーフを首に巻き、ついでに薄手のニットを羽織った。
 平日の昼間だが、ランドマークプラザは賑わっていた。若やいだ老人と、分別めいた若者。どちらも年齢不詳で、肌露出の多い男性がいるかと思えば、襟の高いワイシャツにパンツスーツの女性もいて、男女の境もあいまいだ。おまけに英語、日本語、北京語、広東語、韓国語にベトナム語、アラビア語まで行き交って、国籍すらもあいまい。
「チュロスってなんだ?」
「ねじ曲がった揚げパン」
「何で星形なんだ?」
「おしゃれだからでしょ?」
秋の空は高く、観覧車が悠然と回っていた。海向かいのベンチに掛け、二人でたこ焼きを摘まんだ。大さん橋に、客船『キング・チャーリー』が停泊していた。
「小さいな」
「仕方ないわよ。五百円じゃ」
八個入りだ。
「蛸がなくなったんだよ」
「何で?」
「蛸が高くなったからだよ」
「だから、何で?」
「聞きたいか?」
山口は、青戸の茶色い眼を覗き込んだ。
 たこ焼きの蛸は、日本の蛸じゃない。日本の蛸は高価で、たこ焼きに入れることはできない。養殖の難しい蛸は、人工的に増やすこともできない。たこ焼きの蛸は、ほとんどが輸入だ。
 かつて日本は、不足がちなたんぱく質を求めて外洋に乗り出した。マグロやカツオを追い、当時世界一を誇った海運の技術を生かして、世界中で魚を獲った。
「アフリカの西岸に、モーリタニアという国がある。貧しい国だ。地下資源は少ないし、産業もない。食料自給率も低い。そんな国に、目をつけた日本人がいた」
「何で?」
「蛸がいたんだよ」
モーリタニアの人々は蛸を食べない。世界的に、蛸を食べるのは日本人と、アジアの一部の人々と、ヨーロッパの地中海沿岸地域くらいで、もともと漁業の発達しなかったアフリカでは、概ね海産物は人気がない。
「大量の蛸壺を持ち込んで、モーリタニアで蛸漁を始めた。マグロやカツオを獲る船で、冷凍した蛸をどんどん日本に持ち込んだんだ。それが、たこ焼き産業を支えていたんだな」
「それが、どうしてなくなっちゃったの?」
「パラダイム・シフトだよ」
青戸は怪訝な目つきで山口を見返した。
「一つの時代が終わったんだ。理由は、一つじゃないけども。つまりだね、乱獲で蛸が減ったというのがあって、一方で、欧米人が蛸を食べるようになったんだよ。もともと、アフリカに近いスペインとかイタリアとかでは食べられていたから、うまさを再発見したんだな」
「パエリアに入れるわね」
「技術を伝えたのは日本だけど、獲って売るのはモーリタニア人だ。日本の商社は、ヨーロッパや米国に買い負けるようになったんだよ。どうせ、自分らは食べないものだから、高く買ってくれる方に売るよね」
「なるほどね」
「カボチャも同じことが言える」
山口は続けた。
「日本人は年中かぼちゃを食べる。まあ、ハロウィンの習慣があるから、欧米人も食べるけどね。でも、日本人ほどかぼちゃ好きはいないんだよ」
「そんなに好きじゃないけど。でも、まあ、食べるわね」
桟橋を並んで歩きながら、青戸は抹茶アイスを食べていた。
「本来は夏から秋にかけてしか穫れないかぼちゃが、一年中食べられる。なんでだと思う?」
「輸入しているんでしょ?」
山口はにんまり笑った。
「南太平洋に、トンガという国がある。観光以外に産業のない島国だ。日本の商社がこの国に目をつけて、かぼちゃ畑を作った。現地の人に栽培方法を教えて、専従農家を育成して、現金収入の得られる産業に作り上げた」
「凄いじゃない」
「だろ? 漁業しかない、それも国内向けに細々漁をするくらいしかできなかった国が、外貨を稼げる産業を得られたんだ。国は豊かになり、日本は感謝された。ところが現在は、この国からはほとんど輸入していない」
「どうして?」
「かぼちゃが安くなったんだよ」
オーストラリアやニュージーランド、或いは南米の諸国が日本のかぼちゃ食に目をつけ、日本向けのかぼちゃを生産するようになった。国土の狭い島国のトンガはこれらの国と競合するようになり、やがて価格競争で負けた。
「もともとかぼちゃを食べないトンガ人は、売れなくなったかぼちゃを作らなくなった。これがパラダイム・シフトだ」
「食べればいいのに」
「自分たちの文化にない食べ物を受け入れるのは、意外に難しいんだよ。日本だって、戦争がなければ、パンやスパゲッティーを受け入れていたかどうか、分からないだろ?」
山口の話は退屈だった。思えば、この退屈を味わうために、この男と付き合っていたようなものだ、と思い出し、青戸はフッと笑みをこぼした。
「別れたいんでしょ?」
露店のテーブルに掛け、肘を突いてアイスのコーンを齧りながら青戸は尋ねた。
 腐れ縁のような間柄だ。
 二〇代の頃に勤めていた店に彼が通って来て、気に入られ、毎度指名されるようになった。その店はもうない。青戸は結婚し、子供ができ、その後離婚して、一人で子供を育てた。昼の仕事では足りなくて、夜も稼ぐようになり、出張型風俗店に登録して、山口と再会した。彼は懲りずに彼女を指名した。子供が進学し、やがて独立した後、彼女は店を辞め、何人かの馴染みと個人で契約して会うようになった。その中に、山口も含まれていた。早、互いに五〇の声を聞く頃だ。
「時代が変わったんだよ」
「つまりアタシは、たこやかぼちゃと同じってこと?」
フッと山口は視線を落とした。そうじゃないんだけど、と苦笑いし、「たこでかぼちゃは、オレの方だな」と自嘲した。
「結婚するんでしょ?」
青戸は彼の顔を覗き込んだ。
「いや、そうじゃない」
「なら、何で?」
コーンの尻尾を口に突っ込み、奥歯で齧りながら、巻いてあった紙を指の中で丸めた。
 山口は頭を搔いた。
「言い方が、難しいんだけど、」
上目づかいで彼女を見て、きつい視線にぶつかってまた瞳を下げた。
「あんまり好きな言葉じゃないんだけど、つまり、けじめだな」
彼は上着の内ポケットから、銀行の名の入った水色の封筒を取り出し、彼女に差し出した。青戸は目線で厚みを測った。
「オレは、つまり、キミと過ごせて幸せだったし、これからも、今まで通りでいたい気持ちはあるんだよ。でも、何ていうか、お互いもうこんな年だし、こういう関係は清算して、普通になった方がいいと思うんだな」
「仕事をやめるの?」
山口は目をしばしばさせた。
 別れるというほどはっきりしたものではない。だが、黙って解消してしまうのは惜しい程度に二人の間は深まっていて、何もないのは味気なく思えたのだった。彼の稼業を知っているのは彼女だけだった。どこで白状したのかは、もはや忘れていた。長い職歴の間には気弱になる時期もあり、愚痴の出ることもある。そんな時にふと漏らして、彼女に知られ、たまたま彼女がそのこと自体に関心がなかったのか、義理堅く黙秘してくれたのか、そのいずれかだが、誰にもしゃべらずにいてくれたことから、蟻の一穴も大事に至らず、これまで稼ぎ続けて来られた。
 『けじめ』というのは、なんだかわけの分からないものを、むりやり分かるようにするようで、居心地の悪い言葉だが、仕事を辞めるに当たって、関係者に挨拶するのはやはりけじめだ。山口の場合、純粋に一人ではじめて一人で完遂していたので、仕事の関係者というのがいない。警察や裏社会の筋にも縁故がない。わずかに、彼の稼ぐブラックマネーを預かってくれた信金が関係者と言えそうだが、彼らは口座のカネの出自を知っていたわけではない。彼女がほぼ唯一の関係者だった。
 小さな子が、バタバタと山口の背後を駆け抜けた。追いかけてきた子が青戸を間に挟み、二人して、右へ左へ首を振って、捕まえようとし、捕まるまいとして、忙しないダンスを踊った。
 青戸が眉間に皺を寄せた。彼女は子供嫌いだった。山口は、封筒を引き寄せようとした。青戸はそれを指先で止めた。
「これは、預かっておくわね」
 山口は海を眺めた。青戸は彼を見つめていた。
「この先できることは少ない。ほとんどないと思うんだな。ま、何ていうか、これからは、自分の足元を見ながら生きて行こうと思うわけだ」
「他人の足元しか見て来なかったアンタが?」
二人で声を揃えて笑った。
(つづく)

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渋谷たたき|nkd34 (note.com)

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