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隠れ家

 テツヤがそこを見つけたのは、まったくの偶然だった。担任のさやか先生が、予告もなく休んだ日の自習時間。騒がしい教室に居づらくなって、廊下に出た。他のクラスは授業中だ。足音を立てないように廊下を進み、図書室へ。入り口からそっと覗き、腕組みした司書の先生が、椅子の背もたれに寄り掛かり、居眠りしているのを確認してから、ネズミみたいに体をかがめて潜り込んだ。テツヤは図書室が好きだった。本が好きなわけじゃない。書棚の、塗料とカビの混じった匂いに包まれていると、妙に落ち着くのだった。授業中の図書室は、絶好の隠れ家。もともと、静かにしていなければならない場所だ。静かにしていれば、誰にも見つからなかった。テツヤは、人の視線が届きそうにないところを探した。東側の、美術図鑑が陳列してある書棚の裏に、子どもが一人通れるくらいの隙間があった。奥の角に、足元までガラスの窓があった。窓から、学校の裏山が見渡せた。
 青い空。抜けるような秋の空。日の光を受けて輝く木々。流れる雲。外国の飛行機が、トンビみたいに悠然と、雲の下を横切っていた。
 自分だけの、お気に入りの場所。授業中はそこで過ごした。給食の時間には教室に戻らなければならなかったが、昼休みにはまた、図書室にこもった。誰にも気づかれない、秘密の場所だ。何をするわけでもない。何もすることはない。ただ黙って、空を見ていた。山を見ていた。雲を見ていた。それだけで、魂が体の中に戻ってくるような気がした。
 チャイムが鳴れば、また、家に帰らなければならない。テツヤは、帰りのホームルームの時間に、ようやく教室に戻った。
「どこに行っていたんだ!」
先生は怒った。担任の先生じゃない。六年生の担当で一番おっかない、主任の先生だ。
 どこに、だって? 
 どう言えばいいんだろう? 図書室なんだけど、図書室じゃない。だって、司書の先生は、テツヤが図書室にいたことを知らないから。それに、確かに図書室にいたんだけど、テツヤは、一冊も本を読んでいない。それって、図書室にいたことにならないんじゃないだろうか。
 そんなことを考えながら、テツヤは黙って俯いていた。
「まったく、どうなってんだ、このクラスは」
先生はプンプン怒って、ホームルームを途中で切り上げて出て行った。
 下校途中、歩きながら、また空を見上げた。
なんか、違う。高いマンションの間から見える、狭い空。何も浮かんでいない青い空。空って、どこにあるんだろう? 
 おや、おかしいぞ。
 空は、ここにあるじゃないか。空気が、口から、鼻から、入ってくるじゃないか。
 空の気と書いて、空気。つまり、今いるここと空は、繋がっているのだ。人間は、空を吸って生きているのだ。
 ということは、空はここにある?
 頭に何かがぶつかった。
「お前のせいだぞ!」
同じクラスのケンジが、仲間たちと歩いていた。テツヤが振り返ると、駆け寄って囲んだ。
「お前のせいで、先生が怒ったんだぞ!」
テツヤはケンジを見つめ返した。そうだろうか。主任の先生は、クラスの全員を叱った。騒がしい。自習時間は、遊ぶ時間じゃない。もう六年生なのに、どうして、おとなしく勉強していられないんだ。
 さやか先生は、病気だから仕方がない。先生が、みんなに勉強してもらいたい気持ちに変わりはない。それなのにお前らは、なぜ勉強をしないんだ。
テツヤがいないことに気づいたのは、そう話した後だ。
 テツヤはケンジの顔を見た。つり上がった目、横に膨らんだ鼻、唇の端から突き出した犬歯は尖っていた。
 ******みたいだ。
 急に面白くなって、テツヤは笑い出した。******みたいだ。ケンジの顔は、何かに似ていた。でもそれが何か、すぐには思い出せなかった。******みたいだ。テツヤは、笑いが止まらなくなった。
「なんだ、コイツ」
ケンジは戸惑って、フッと視線を落とした。行こうぜ、と仲間の一人が言い、彼らはテツヤに次々と肩をぶつけながら通り過ぎた。

 星は輝く。宇宙に空気はない。酸素もない。なのになぜ、輝くのだろう。自宅の窓から、テツヤは空を眺めた。宇宙は空じゃない。空気がないから。ということは、空には果てがあるのだ。終わりがあるのだ。
 空の終わった先に、星の世界がある。星にはそれぞれ惑星があって、惑星にはそれぞれ空がある。空の下に海があり、山があって、人が住んでいる。今、宇宙の無数の星の中にある空の下に、上を見上げている人がいる。そう思うとテツヤは、なんだか心強くなるのだった。
 窓がこつんと音を立てた。テツヤは窓から顔を出した。ケンジだ。ちぎった消しゴムを投げるのは、昔からの彼の通信方法だ。ケンジはベランダの柵を乗り越えて、テツヤの部屋に来た。
「行こうよ」
彼はテツヤの腕を取った。
「どこに?」
「前に行ったジャンか」
 ケンジは親友だった。四年生までは、同じアパートに暮らしていて、毎日一緒に遊んだ。ケンジがテツヤの家でご飯を食べたり、テツヤがケンジの家で風呂に入ったりした。ケンジのお母さんが結婚して、引っ越してから、あまり会わなくなった。ケンジは塾に通うようになり、新しい仲間と一緒にいることが多くなった。
 行こうよ、とケンジは言った。もう、ずいぶん前のことだ。あそこだ。隠れ家だ。オレたちの、秘密の隠れ家。
 学校の裏山の脇から少し下ったところに、古い屋敷があった。誰も住んでいない廃屋だ。人が入れないように、周りに背の高い柵が廻らしてあった。とげのあるその針金と崖の間に、子供なら通れる隙間があった。四年生の頃だ。二人で探検した。
「核融合っていうのは、」
ケンジは得意げに話した。彼は物知りだった。
「原子核が、自分の力でエネルギーを放出するんだ。だから、酸素がなくても燃える」
コンクリートで固められた岩肌の途中に、扉があった。謎の扉。二人で引っ張って開けた。鍵が壊れていて、扉は音を立てて外れた。
 中は、洞窟だった。真っ暗闇の穴。何も見えない。何もいない。
「原子力の明かりがあれば、ほぼ永久に、中を照らせるはずなんだ」
「どうすれば、原子力を使えるんだろう?」
「ウランを手に入れないとな」
その時は、怖くて、洞窟の中に入れなかった。また行こうと約束して、それきりになっていた。
 静かな夜だった。鼻から吸い込む空気が、肺をきれいにしてくれそうだった。救急車だろうか。消防車だろうか。町のあちこちで、赤いランプが光っていた。ただ音はなく、人通りもなかった。
 裏山から、廃屋へ向かう。鉄条網は、背の高い金網に換えられていた。
 今の家は、家じゃない。あの時、ケンジは言った。借りている部屋だから、ウソの家だ。本当の家を作ろう。オレたち二人の隠れ家だ。
 五年生になってから、ケンジとは一緒に帰らなくなった。家の方向が変わったからだったけど、それだけじゃなかった。学校でも、あまり話さなくなった。テツヤは、ケンジ以外に話し相手がいなかった。ケンジは何でも知っていた。何でも教えてくれた。地球のこと。世界のこと。宇宙のこと。
「これは、防空壕だ」
ケンジは言った。相変わらず、洞窟は扉でふさがれていた。開くと、暗闇。シンとして何も見えない。
 ケンジは、ズボンのポケットから明かりを取り出した。
「原子力か?」
「そうだ」
彼の手のひらの上に、ボウッとオレンジ色の光が灯っていた。彼は先に立って中に入った。
 かつて、この国に戦争があった。外国の戦闘機が、空を埋めて飛んできた。町を焼くためだ。この町にも、戦闘機が来た。憎い敵の暮らす町を、燃やすためだ。憎い敵を、殺すためだ。
 防空壕は、空からの攻撃を逃れるために掘られた穴だ。家族みんなでここに隠れて、爆撃が終わるのをジッと待ったのだ。
 やっぱり、ケンジは賢い。二人は、暗闇の防空壕で、原子の明かりを頼りに、遅くまで話し合った。次の戦争は、核戦争だ。原子力を使いこなさなければ勝てない。
「オレはさ、世界中が、日本になったらいいと思うんだ」
ケンジは言った。
「そうすれば、世界から戦争がなくなるだろ?」
その通りだ。テツヤは思った。そうなれば、どんなに暮らしやすいだろう。ケンジの顔は、ジャック・オー・ランタンのようだった。
 帰り道、スマホにメールが届いた。母親からだった。駅前の塾へ通う小学生の歩行者に、暴走車が突っ込んだという。
 前を歩くケンジの背中が遠くなった。
(了)

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