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売られたヤクザ その20

 こういうのを、天啓というのだろう。
 平井紀夫は立ち上がり、天井を仰いだ。何の変哲もない、板張りの天井。木目が、間抜けな亡霊のように口を開けている。
 半世紀近く、彼はこの天井を眺めて暮らした。小児ぜんそくで、小学校を休みがちだった。父も母も仕事に出掛け、兄や妹は学校。一人家に残って、することもなく、話す相手もいなかった。
 やがて不登校になり、中学、高校に通いそびれた。兄妹は独立し、両親は別れた。母が出て行き、父と二人で暮らした。以来、三〇有余年。父が死んで、いよいよ一人。人生ゲームの終局だ。生き辛さの責任を両親になすり付けていた彼は、その二人が去って、生き続ける動機を失った。カネを得る方途も失った。母もすでに再婚先で他界しており、兄妹とは関係を絶っていた。父親の財産は、生前にほぼ使い尽くした。
 彼自身が稼がない限り、生きていくことはできない。しかし彼は、この年まで、自分で稼いだことがない。今更世間に出て、新しく何かを覚えられる年でもない。カネが尽きれば死ぬしかない。
 早いか遅いかの問題だ。
 もっとも、彼にも生活保護に関する知識はあった。どんなに世間と隔絶した人間でも、必要な情報は自然と耳に入って来るものだ。彼は区の福祉事務所に相談した。訪問日が決まり、ケースワーカーの来訪を待った。午前九時。彼の部屋から、牛王神社の境内が見下ろせた。敷地の一角にある幼稚園で、園児たちが砂遊びをしていた。砂を掘る子。盛り上げる子。山にした砂に、トンネルを掘る子。どれも似たような幼児だが、やることは様々だ。自由だ。砂場というフィールドで、思い思いにやりたいことをやる。だが彼らは、砂場の外を掘ることはない。そんなことをすれば、先生に止められる。硬い園庭の土は手では掘れない。スコップを折れば怒られる。自由とは、決められたフィールドの中での自由なのだ。厳格に定められた枠の中での自由だ。
 それは自由か?
 砂場はブロックで囲われ、園庭は柵で囲われていた。園児も先生も、規定の時間内、柵から出ることはない。彼らは、決められた枠の中で『自由のようなもの』を学んでいるわけだ。
 園の脇を通って、社殿に向かう男があった。薄い髪を油で横に撫で付け、肩にショルダーバッグを吊るした中年男。彼は幼児の遊びなど目もくれず、荒々しく鈴を振ると、乾いた音を立てて柏手を打った。
 風采で相手を選ぶわけではなかった。ただ、話し相手にはそれなりの風采を希望したかった。普通の話ではない。露骨に相手が優位な話だ。彼のカネをもらうわけでもないのに、彼に遜らなければならないという理不尽。彼がカネの前に立ち塞がっているというだけで、彼を尊重しなければならないという不合理。誰ならいいという希望があるわけでもなかった。女性がいいとか、若者の方がとっつきやすいとか、ある程度の予断はあったが、それが叶わないだろうことも承知していた。だが、ドアスコープの先に覗いた男の顔を見て、平井は居留守を決め込んだ。予め優劣のある話を、対等にできる相手だとは思えなかった。
 いよいよ、平井は詰んだ。死が向うからやって来た。
 彼は台所で、母親の残した包丁を研いだ。概ね、人生は絶望だ。希望を抱きながら生まれ、それを育てながら生きて、結局それが叶わずに死んでいく。人の数だけ絶望がある。まれに、希望を抱きながら死ぬ者もあるが、それは絶望する暇がなかったか、絶望できるほど成熟できなかったかのいずれかだ。生きていることに意味はなく、死ぬこともまた無意味。彼が四〇有余年生きて得た結論だ。
 これが真実ならば、いっそ希望を疑う心のないうちに死ぬ方が、幸せなんじゃないだろうか。彼はこの思い付きを天啓と受け止めた。
 ケースワーカーをやり過ごした後、平井は牛王神社の境内に立った。両手に一本ずつの包丁。懐にもう一本。これは自分用だ。鈴を鳴らし、型通り参拝した。明るい日差しの下で、園庭は静まり返っていた。園児たちは、教室に戻っていた。平井は、自分が先行の殺戮者を真似ているとは思わなかった。ただ殺したいわけではなかった。彼ら、彼女らの幸福を永遠のものにするために、人生を終わらせるのだ。彼らの幸福のためなのだ。彼は拝殿の階段を下りた。
 一人、一人。また一人。
 黒のスーツに黒いサングラスの男たちが、前から後ろから、左から右から、砂利を踏んで歩み寄って来た。彼は血走った眼を突き出し、白髪交じりのあごひげを揺らして左右に首を振った。また一人。さらに一人。
 平井は包囲された。彼は牡丹のように口を開いた。何か言おうとし、何も言えず、それでもまた、何とか言葉を吐こうとし、適わず、口の中の涎を粘らせた。右を向いた時に左の腕を取られ、左を振り向くと右の腕を固められ、膝を折られ、背中を押されて砂利の上に四つ這いになった。さらに上着を剥ぎ取られ、懐の包丁も取り上げられた。何か、何か言わないと。そう思うが、しかし、こんな時、何を言えばいいのか。人生四〇有余年。あんなことを言いたい。こんなことをしゃべりたい。そう考え続けた人生だった。言いたいことを山ほど抱えながら、言える時がなく、言わずに過ごした人生だった。今、彼は部屋を出た。空は青い。風は乾いていた。こんな時、何と言えばいいのか。幾千万の言葉を学び、幾千通りの言い方を知っているつもりだった。如何せん、こんな場面でどういうべきか、まるで想定していなかった。自分が、屈強な男たちに囲まれて、四つ這いに押さえ付けられるとは。彼は首を擡げ、上唇を上げて牙を剥いた。目の前に、浅黄色の袴と白衣をつけ、手を前に合わせて莞爾とした女性の顔があった。
 次の瞬間、彼は干上がった蛙のように地べたに突っ伏した。
 大柄な男が、彼の両足を引き摺って持ち、「部屋へ戻しましょう」と言った。
「戻してどうする? 水でもぶっかけて起こせ」
縮れ毛の男が、包丁を禰宜に渡し、両手をズボンのポケットに突っ込みながら言った。楠美龍太だ。
「鍵があります」
しゃがんで、平井のズボンのポケットから、キーホルダーに束ねられた鍵を、角刈りの男が引き出した。大見健三郎だ。彼もまた、包丁を禰宜に渡した。
「こいつの印鑑が必要なんですから、やっぱり、部屋に戻しましょう」
「また出て来なくなるんじゃねえのか?」
「いいじゃないですか。部屋の中で四〇年も暮らしていた奴なんだし。死ぬまでいたらいいんですよ」
「お前らは、経済の原則を知らん」
楠美は右手を抜いて腰に当て、ハッタと二人を睨んだ。
「卵は、殻を出なければひよこになれない。オタマジャクシは、足が出なければ蛙になれない。若者は、家を出なければ男になれない。引きこもりは、部屋を出なければ世間並みになれないんじゃ。分かるか? 日本人は、海外に出なければ稼げない。外国へ行って、ガイジンのカネを奪って、日本で使う。これが二一世紀の、正しい経済活動だ。この男も、せっかく部屋を出たんだから、こんな近場で無駄に暴れさせないで、外の世界で男を磨かせればいいんじゃ。案外、いいタマじゃねえか。とうは立っているけども。適当に借金背負わせて、どっかの飯場に売っちまえ」
「それでもいいっすけど、こいつの口座が、オヤジの口座なんですよね?」
河津は、立てた両膝の上に肘を乗せ、一重瞼に険を籠めて楠美を睨み上げた。
 オヤジの口座。この日、カタビラ組の幹部連は、招集令を受けて牛王神社に集合した。跡目相続の談合のためだ。
 相続には、当然のことながら、名と実がある。名は、組長の座。実は、組の口座。資金をプールしている口座だ。組名義の口座は確保されていたが、それとは別の、裏の口座が使用不能になっていた。平井紀夫の休眠口座だ。ここにプールされているカネも、当然相続されなければならない。彼らは談合に先立って、平井の家を訪ね、口座の印鑑を入手する予定だった。引きこもりの彼の部屋に押し入り、多少手荒なことをしてでも、印鑑を出させるつもりだった。
 平井紀夫が自主的に出て来て、手間が省けた格好だ。
「ボクが取って来ましょう」
作業用ジャンパーの男が、大見から鍵を受け取った。
「この男は、モーニングセットでもごちそうしたら? 朝飯がまだのようだから」
 山口明夫だ。
(つづく)

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