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芸術作品としての『らんど』

ここで言う芸術作品とは、商業主義一切抜きで、かつ受け手のことをあえて考えない、純粋に自分自身に向けられて作られたARTのことを指す。しかし、この芸術作品『らんど』(2024年1月24日発売)を生み出す時点でZAZEN BOYSは少なくとも稼ぐためにやっているのだろうし、リスナーのことだって意識して考えているはず。それでも、根底にあるのはビジネスでもファンサービスでもなく、自己探検だとわたしは確信している。それを踏まえて読み進めていただけたら幸いだ。

向井秀徳氏(ギター・ボーカル)のインタビュー記事でも見かけたが、今回、彼は「俺はこう思っている」ということを歌っていない。デッサンの静物画を描くように、あるものだけを忠実に言葉にしている。『ブッカツ帰りのハイスクールボーイ』では唐揚げが冷めていることを歌うだけだし、『YAKIIMO』でも拡声器から流れるあのメロディを再現しているだけ。『公園には誰もいない』に至っては、タイトルそのままを鳴らすに留まっている。これは作家のコーマック・マッカーシーの影響もあることを向井秀徳氏は話していた。もちろん、それは正しいのかもしれないが、アルバム『SAPUUKEI』に象徴されるようにナンバーガール時代から、そうではないかと思う。「俺にはこれしかできん、ずっと以前から」というインタビューの言葉にも、それは表されている。

話は脱線するが、わたしは長編小説を書く。しかし、結局のところ、毎作、自分が楽しむためにしか書かないし、ストーリーもほぼ同じ。『生きろ、死ぬな』が一貫したテーマである。だからこそ、向井秀徳氏の「これしかできん」という発言には、激しく同意する。せつなさや夕暮れや繰り返す諸行無常や、同じ世界観を歌い続けている向井秀徳氏に敬意を払いたい。表現で個性を出そうとしてしまいがちだし、メッセージも含めてしまいがちなわたし自身に恥ずかしさすらも感じてしまった。『らんど』ではありのままの世界を歌う/演奏する、それだけに執着しているところに好印象。松下敦氏(ドラム)、MIYA氏(ベース)、吉兼聡氏(ギター)の演奏も個性的で自己主張もありながら、無個性を体現するように鳴らされている。もっと言えば向井秀徳氏も含めて透明を鳴らしている、歌っている。そして、わたしたち、リスナーは委ねられた。それがどう取られても、どういう感想を持たれても受け入れるという、潔さをZAZEN BOYSの姿勢から感じている。

『永遠少女』で「人間なんてそんなものだ」と卑下しているから、アルバム・タイトルには『どうしようもない乱世を生きる人間たち』という比較的ネガティブな意味合いがあるのかもと感じている。だが、そこはあえてポジティブに捉えたい。委ねられたわたしはこう思う。『テーマパークのような国に住む人間として、人生を肯定する』という意味合いがあるのではないか。ここで申し上げておきたいのは、向井秀徳氏は人間そのものではなく、『日本人』という人間についてを、このアルバム・タイトルに込めたのではないかということだ。言わずもがな『らんど』は英語で『土地』という意味を指す。だから『土地=日本』じゃないかと。日本はわたしたち、そして向井秀徳氏にとってのアイデンティティである、ルーツでもある。それと収録曲のリズムとメロディにも日本民謡や童謡のような日本人らしさを感じた。そういう意味で日本人である自分自身を追究する芸術作品だとわたしは言いたいのだ。

そのほか、グラフィックデザイナーの三栖一明氏と向井秀徳氏によるCDというパッケージ作品のアートワークも冴えに冴えている。歌詞カードに散りばめられているイラストが秀逸だ。グニャリと捻り曲がった《DELAY MAN》が爽やかでカッコいいし、気持ち良さも感じる。反対に不気味さも孕んでいて良き。正直なところ、この《DELAY MAN》たちが何を意味するのかわからずにいる。時間の収縮性を表しているのか? 自信はないが。でも、わからないままでいいのだと思う。芸術作品とは謎がある方が良い。この作品の答えは耳にした人/手にした人の肌感に委ねられるべきものだ。そもそも答えなんてないのかもだし。

今作は12年振りの作品となることも話題のひとつ。2004年リリースの1st以降からはもちろん、ナンバーガール時代からの伏線を回収している集大成的な芸術作品である。演奏は鋭く、タイトで、シンプルで、重みもある。清々しい疾走感や圧倒的な音像、そしてどうしようもない物悲しさが封じ込められている。向井秀徳氏が見ている、聞いている、嗅いでいる、感じている風景が淡々と羅列されている芸術作品。だからといって真摯に向き合わなければいけないというルールはない。我々も普段通りの心持ちで聴けばいい、そんなアルバムなのではないか。

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