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ワンダーランズ×ショウタイムは正気のままショーを続ける(ストーリー感想)

ゲーム「プロジェクトセカイカラフルステージ」内のワンダーランズ×ショウタイム(以下ワンダショ)のストーリー(全20話)を読み終わり、大変に感動したので感想と考えたことをつらつらと書き連ねようと思う。
(リリース一週間経っていないが、めちゃ推しゲームになってしまった)

以下、20話までの大まかなストーリーのネタバレがあります。
どうぞご注意くださいませ。


わんだほーい!(うっかりネタバレしないようスペース確保のためのわんだほーい)


彼らはどこまでも正気のまま希望を手に入れた

ワンダーランズ×ショウタイムのストーリーの感想を、私的におおざっぱに、大枠をとって、一言でまとめると見出しのようになる。
ええ!? あの「今日もとびだせ、わんだほーい!」がユニットのキャッチコピーである彼らのストーリーが正気!?となるかもしれないが、そうなのだ、彼らは非常に地に足をつけて物事を考え、「ショーを行う」という希望に立ち上がる物語だった。


序盤はわちゃわちゃでかわいい

序盤のわちゃわちゃ、四人が揃ってショーの初回を迎えるまではとにかくかわいい。
特にえむちゃん最高! こういうハイテンションでキラッキラしているキャラクター大好き。たまに、目のなかに★が現れるところも大好き!
ただものではない四人が集まったワクワク、一体どんな物語になるのだろう、とにかく会話や行動がかわいくて、ずっと楽しかった。
意外なのは、自信家で「どんなシチュエーションでもかっこいいポーズがとれる」ことを特技と豪語するユニットのリーダー、天馬司が、司以外の三人に振り回され、苦労するツッコミ役となったことだった。ただ、自信家であるがゆえに、「自分であればこれくらいこなしてみせる」と三人から浴びせられる無茶や暴言に答えていくので、彼らを完全に拒絶することはない。それはないだろ! 危ないだろ! と声をあげながらも、最終的には「わかった」と言ってくれるのである。前回のnote記事でも語ったが、司の案外、現実主義なところが垣間見えるのも面白かった。

なお、えむなど他のメンバーも根はかなり理性的なところがちょこちょこと描かれている。(例えば、「ワンダーランズ×ショウタイム」の×も、ショーをやった分だけ世界が増えるから、×にしたと、非常に納得できる理由をえむが披露するシーンなど――個人的にとても印象的だった)

そしてショーがはじまる

練習もうまくいき、類の提案した演出にも概ね応え(すごすぎないか天馬司…)、さていよいよショーだ! というところで、こちらのワクワクは最高潮である。普通に「楽しみだなー」という気持ちでショー当日のストーリーを読み進めた。

しかしショーは失敗する。
私はびっくりした。まさか失敗するとは。
いや、私自身は脳にハッピーエンドを考えるための神経が欠損しているので、「私だったら簡単に成功させないが…」という気持ちはあった。だが、今までこんなにわいわいしてきたし、何より本人たちが楽しそうなのだ、いけるだろうと考えていた。

ショーの失敗の原因は、人前に立てない寧々が代役として操るロボット(ネネロボ)の充電がきれて動けなくなってしまったこと。そのトラブルに、類はもうだめだと判断してショーを無理矢理終わらせる(トラブルで怪我をしたとかいう大きな失敗ではなく、トラブルには対応しているところが、現実的だ。類の頭の回転の速さもわかる)。
どうして充電が切れてしまったのかといえば、前日に寧々が遅くまでネネロボを使ってショーの練習をしていたからだ。ロボットを開発した類の予想をこえて寧々がネネロボと練習をしていたために、当日充電がきれてしまった。つまり、悪意も怠惰もそこにないのである。
頑張った、頑張りすぎてしまったがゆえに、失敗してしまったのである。

お客はストーリーが尻すぼみになってしまったショーを見て、よくわからなかったと感想をこぼしながら帰っていく(ここであからさまなdisが入るわけでもないのが、またまともだ。基本的にプロセカのストーリーは、細部の現実感がすごいと思う)。
なぜネネロボが止まってしまったのか? その理由が明らかになり、類は「次は必ず…(成功させよう)」とフォローするが、司は怒る。

次? 次だと!?
じゃあ今日の客はどうなる!
ショーは毎日変わる。その時の1回1回が勝負だ!(13話より)

これは至極まっとうな怒りである。
正直なところ、私はここで司は「あれだけ頑張って練習したのに(できるはずのことができなかった)」「クオリティが十分でない」という点に怒るのだと思っていた。
しかし違った。司はあくまで、観客の視点から怒りを表明したのだ。非常に客観的な視点である。ここで、今までに見せてきた、司の「現実的な思考」が活きてくる。彼は自信家な面から想像されるステレオタイプなキャラクター像よりも冷静な思考をする男なのだ。
彼らは何度も同じショーを行うかもしれないが、観に来たお客さんには二度とない一回なのである。


これは生身の人間がそこにいることが必要なショー(や演劇)ならではの話だ。
ショーには、生身の人間(演者)と生身の人間(観客)がいることが必要なのだ。

それを、生身の人間でないスマホゲームのキャラクターたちに語らせるというのは、なかなか豪胆なことだと私は感じた(私たちが見ているのは、「生身の人間」ではない、平面のキャラクターたちなのだから)。さらに言えばそれは、生きた人間ならではの醍醐味である。こう考えると、”生きていない”ミクたちとも関係がない話だ。だが、「生きた人間」の視点であえて進めるシナリオに私は感心した(それは同時に、司の案外現実的な思考が現れていてまた好きだ)。
だからこそ寧々は反論できない。そのとおりだ、と受け止めるしかない。己の弱さに向き合うしかない。自分のせいだ、ごめんなさい、と謝ってその場からいなくなることしかできない。
秀逸であるとともに、残酷なシナリオである。
寧々が司に怒りをぶつけられる13話が、Twitterのサジェストに出てくるのも納得だ。
(ワンダショ 13話 で検索すると、読んだ人たちの悲痛な叫びが見られる)
私も「違うよ~~~寧々ちゃんは頑張ったんだよ~~~~」と気持ち悪い声をあげながら号泣しながらストーリーを進めていた。

残酷なシーンはまだ続く。寧々を責めた司を、類は「言い過ぎじゃないか」といさめ、最終的には「君はスターになれない」とその夢を否定する。そして類は去って行き、司もえむを残してステージを後にする。せっかく集まった、あれだけわちゃわちゃしていた四人はバラバラになる。

13話以降は一気に読んだ方がいい

上記の残酷な13話以降は、もうずっと「どうなるんだ」と気になりっぱなしなので、ぜひ一気に読んでほしい(そもそもこのnoteを読んでいる人は、すでにストーリーを完読した人がほとんどだろうから、この一文にほぼ意味はないな)。多くの人が、やめ時を失って最後まで一気に読み進めてしまったのではないだろうか。私はそうだった。

えむの秘密(連休までにワンダーステージに人を集めなければステージはなくなってしまう)と諦めを聞いた司は、やはりショーをやろうと動き出す。そして寧々に会いに行く。

司の謝罪と話し合いの末、もう一度ショーがやりたい、と願った寧々、そしてえむを伴って、最後に司は類に謝罪に行く。しかし類は、もう一緒にはやらないと、一度、突っぱねる。
ようやく会えた! 和解だ! と単純に考えていた私は、そこで「ええっ」とまた驚いてしまった。類は一度拒絶した司たちを簡単には受け入れない。
そこで司たちは、ミクたちのいる「セカイ」で自分たちの思いを「ショー」として類に見せる。そして最後に、類に台詞ではなく、司の言葉として、お願いする。

だからもう一度、オレと一緒にショーをやってくれないか? (18話より)

(それまでの言葉はすべて『 』がついていたのに、ここで急にそれがとれる。憎い演出である!!!)

ショーをやろう、とショーの台詞に交えて訴えられた類は再び司たちとショーをつくることを受け入れる。(「セカイ」という特異な設定を、ここで生かすのか……凄まじい……)
このあたりの会話、ずっと泣けるわけだが、特に秀逸だと思ったのは、下記の類の返しだ。

おやおや、間違えないでくれたまえ。僕は類じゃない
錬金術師さ (18話より)

ここの返しが本当に秀逸で……。あくまで彼は演者として答えるわけだ。個人として応答するのではなく、彼は舞台にあがるのだ。シナリオライター天才すぎるだろう。類が応えるだけでこちらの心を動かすには十分すぎるくらいだが、+αしてくるとは……。

セカイはまだ始まってすらいない

そして19話で、彼らに対する書き下ろし曲である「セカイはまだ始まってすらいない」がタイトルとなる。19話で書き下ろし曲タイトル、20話でユニット名という形はどのユニットも同じなのだろうが、ここでタイトルが急に鮮やかな色彩で私たちに迫る。
おそらくストーリーを読む前は、多くの人がこの曲名を「ああ、これからショーステージ(世界)が始まるからね」と捉えただろう。それは大きく間違っているわけではないのだが、ストーリーを読み終わると、「そうか、これはショーではなく、彼らの世界の幕開けなのだ」としみじみ感じられるだろう。かわいいなあという感想が大半を占めていたMVも、泣きながら眺めることになる(四人そろって歌って踊っていることが尊すぎる)。

そして彼らはショーを成功し、ワンダーステージを存続させることに成功する。めでたしめでたし、最後は彼らの明るさに相応しい、きらきらと希望に満ちた終わり方だ。
ここまで読んでよかった……と心から思った。


超個人的なツボ①楽しいものを楽しいと思う「天才」

18話の冒頭などで出てくる類の過去も切ない。彼は寧々の口からも語られていたが、ショーへの情熱は人一倍持っているものの、いや、そうであるがゆえに、周りがついていけず離れていってしまう。だから一人でゲリラパフォーマンスを繰り返してきたのだ。
類はネネロボを作ったり、簡単な機械ならば授業一コマの時間で作り上げてしまったりと、(進学校にいたようであるし)かなり頭のいい人間だ。だから、年齢相応よりもっと上の精神年齢に設定し、世の様々な不条理に達観するキャラクターとしても描けるはずだ。ワンダショのメンバーのキャラクター説明を読んで、類が皆をまとめる大人的な役割と思った人間も一定いただろう。しかし彼は「ショー」というエンターテインメントを――ある意味で高い知能は(勿論あるに越したことはないが)必須ではない世界を選んでいる。このキャラクター設定も、個人的にはかなりグッときた。彼は普通に、みんなが楽しいものを楽しいと思い、子供の頃の夢をそのまま追いかける人間なのだ。天才だけれど、頭がいいけれど。
普通に楽しいことがしたいのに、みんなは自分をおかしいと思っている……切ない。
自分としてはおかしなことをしていないのに、皆が離れていってしまうという「頭がいい人の孤独」を、まさかワンダショで見られるとは思っていなかったので、終盤の類に関する展開にはふいに刺された気持ちだった。そういうの大好き(「頭がいい人の孤独」は本当に大好きで、ほかには例えば、最近で言うとFGOの大奥イベの松平信綱の「人でなし」と呼ばれる回想あたりがそうだ。あれもよかった)。

超個人的なツボ②「成功し続けなきゃいけない」

生身の人間がいることが必要なショー、という観点からもうひとつ語りたい。
このシナリオで私がハッとさせられたのは、「一度も失敗できない」という演者のプレッシャーである。司は下記のように言っている。

ショーは毎日変わる。その時の1回1回が勝負だ!
だからオレ達は、いつだって成功し続けなきゃいけない! (13話より)

人間に失敗はつきものだということは司も理解している。そこから生まれることがあることもわかっている。それでもなお、理想は「一度も失敗しない」なのである。彼らが面と向かうのが「ショー」である限り。


彼らは一度失敗した。それを取り消すことはできない。
現実的な考え方のできる彼らはそれをわかっているだろう。ゆえに彼らは「失敗」という不安を常に頭に置かなければならない。

それでもなお、彼らは「ショー」を選ぶのだ。何度もショーを行うのだ。成功し続けなければならない「ショー」を。

「セカイはまだ始まってすらいない」の歌詞が思い出される。あの歌は明るく、終わりの先を歌っている。

ショーの終わりの先にある新たなる始まりを、彼らは理解している。そこにある失敗というプレッシャーを抱いたまま、終わりと始まりを、彼らは何度も繰り返す。

そういう彼らの強さを、私は心より尊敬する。

超個人的なツボ③ストーリー読破後の印象の変化

「セカイはまだ始まってすらいない」は本当に名曲だと思う。ストーリーを読み終えた後に二番を見ると、もう心がシッチャカメッチャカになる……ストーリー読後かどうかで、深みはかなり変わるのではないか。
「無神経な王」と自身を評してしまう司が切ないし、「知恵の輪ほどきたいよ ずっと 不安だった」はお前不安だったのかー!!って泣いてしまうし、「埃払って再起動する」は、ストーリー後だと「頑張れ!!」って叫びたくなる。この曲が司から生まれた曲なのがもう、さ(限界)。

あと、ストーリー読後に、汎用立ち絵?の司を見ると、旗を持っているのがまたいい。
寧々もえむも類も、旗を目印に司のもとへ集うわけだ。彼らはフラッグをもって世界を進むわけだ。

余談だが私はワンダショのストーリーの読後感と親しいものとして、映画「何者」の鑑賞後の感覚をあげたいと思う。
朝井リョウの就活小説「何者」は、Twitterの形式を巧みに織り交ぜながら、人によってはつらすぎる現実・自我を描いた作品である。ちょっとハスに構えて「世間なんてさ…」とすねている人間ほどぶっ刺されるので読むときは注意してほしい(本当に注意してほしい。私は注意したからな! 読んで暗い気持ちになっても、責任はもたない!)。
さて、ここであげたのは「映画版」である。小説版では決してない。映画版は、文庫で解説(名文!)も書いた三浦大輔が監督となっており、小説版「何者」に対しての、三浦大輔自身の答えが含まれた作品になっていると思う。
映画版では絶望的な最後にわずかな希望を残して、終わる。そして主題歌の「NANIMONO」が流れてくる。予告を見ながら何度も聞き、小説版を知っている自分にとっては絶望の歌であったそれが、ファンファーレのように明るく聞こえてくる。大まかな流れはもちろん変わらないので、主人公は絶望を経験しているし、彼から絶望が離れたわけではないが、三浦監督の映画版では、その絶望を抱えながらも一歩踏み出す様子を描いている。
この、絶望の先にある明るさ、これからまた始めようよという空気が、ワンダショのストーリー読後とかぶった。主題歌が違った印象で聴こえるというのも同じだ。
三浦大輔は、演劇をメインに活動している人である(蛇足だが、名文すぎる文庫版「何者」の解説も、映画版「何者」の終盤も、演劇に身を置く三浦大輔だからこそ生まれたのだろうと思う。)
演劇も、ショーと同じく(むしろショーと同じカテゴリでいいのか?)、生身の人間がそこにいることで成り立つものだ。そういう意味で、ワンダショのストーリーと近しいものを感じるのはさしておかしくないことなのかもしれない。

超個人的なツボ④エンターテインメントの強度

そもそも、エンターテインメントが誰かの人生に彩りを与えるということを純粋に信じる人間たちが私は好きなんですよ。

いかにも「これはあなたに向けてのメッセージです」という作品だけではなく、笑っちゃうような、消費と言われても仕方がないような軽さで提供されるエンターテインメントが、ふとした瞬間に影響する瞬間が好きなんですよ。「何者」語ったからついでに言及すると、「何様」のギンジの短編のような。
そのことを(恐らく)信じているだろう人間が、四人もいるという事実だけで、尊いわけですよ。
頭がいい、おそらく世の中のさまざまな摂理をわかってしまう類でも、エンターテインメントを選ぶ。そのエンターテインメントの強度へのプロセカ側の信頼が感じられたという意味でも、ワンダショのストーリーは大変よかった。
ありがとう、ワンダショ……。


以上、ひとまずワンダショのストーリー感想でした。
あの四人が揃って歌って踊っている事実だけで、「楽しい!!」「良かった!!」と思えるいいストーリーだった。
次は「全年齢でできるギリギリを攻めた」というニーゴを読んでいこうと思っている。すでに7話まで読んだが、不穏さがやばい。

(20/10/06 なかつ)

余談というかメモ:CDめっちゃ買うよね

あと、プロセカに出てくるオリジナルキャラクターたちは、CDをよく買っているようだ。
「セカイ」とアクセスするためにスマホが必須であること・今の若者たちをターゲットにするという点では、サブスクで音楽を聴く、という方が自然だと思ったが……。
アマチュアとプロの線引きとして、ネット⇔CDという風になっているのかな?(CDの話では、プロのアーティストであるキャラクターの父親の話や、ミクの話がよく出てくるし)

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