オナニーをしている男性は女性を差別している?~ネオ高等遊民さんの動画への一つの応答~

 ネオ高等遊民さん(以下ネオ民さん)というyoutuberをご存じですか?哲学科の修士(マスター)課程を修了された方で、様々な哲学に関する動画を投稿されています。そんなネオ民さんの動画がいつもより賛否が分かれており、僕も見ていてソワソワしてきたので、自分なりの考えや思いを綴っていきます。

 動画リンクを張っておきます。男「女性差別許さん!」→夜はオカズ探し→マジでなんなの?


・ネオ民さんの主張と反対派の主張

 まずはネオ民さんの主張の論の骨格だけを僕なりに要約します。

①他者を目的としてではなく手段として扱うことは差別となる。
②男性は自慰行為にするとき、女性を手段として扱っている。
③自慰行為をする男性は女性を差別している。
④自慰行為をする男性(女性差別主義者)が女性差別反対運動するのは矛盾である。

 反対派の意見は主に次のようなものでした。

・③の自慰行為=差別というけど、相手に危害を加えてないから差別とは言えないのでは?
・そもそも、①の手段化=差別っていう風に導ける?

 ネオ民さんと反対派の間にはどんな溝があるのでしょうか?僕は道徳基準に関する違いをそこに読み取りました。その違いを以下では書いていきます。


・それぞれの道徳基準

 まずネオ民さんは、主にカントに代表される道徳基準に乗っ取っています。
 カントは自分の情動に突き動かされたり、起こる結果を考慮して自分の行動原理を変えることを道徳的とは言いません。自分の情動を制御して、どんな結果が起ころうとも自身の行動原理を守ることを道徳的とします。もちろん自分勝手な行動原理ではなくて、みんながその行動原理を持ってほしいと思えるような行動原理でなくてはだめです。「人を手段としてでなく目的として扱え」ということも、ここに入ると思います。他人が自分のことを手段として扱い、自身の人としての尊厳を認めない世界を求める人はいないでしょうから。
 もっと具体的にいきましょう。例えば「嘘をつかない」という行動原理はみんなに持ってほしいものです。だからどんな時でも、自分の情動や起こる結果なんか流されずに「嘘をつかない」という行動を貫くことが道徳的となります。
 しかし中々実践するのは難しい面があります。例えば相手を慰めるために「嘘をつく」ことは道徳的とはされないのです。「嘘をつかない」という行動によって起きる結果について斟酌して、その結果、相手を傷つけたくないという情動に流されて「嘘をついてしまった」からです。

 対して反対派の多くの方は、功利主義的な道徳基準に乗っ取っています。
 功利主義者は「人々の快=幸福の最大化」を道徳的なものとします。何が人々の最大の幸福につながるのかという問題はあったりしますが、功利主義的な考え自体は伝わりやすいと思います。
 カントの道徳基準と比べるとえらく俗っぽく映りますが、功利主義にも筋はあります。前提として、人間の生は快と不快によって支配されています。人は快を求め、不快を避けます。これには例外はありません。この例外のなく誰もが求める快を幸福と言い換え、それを追求することが善いことだと言うのです。
 快を求めるというと道徳とかけ離れた自己中に見えますが、そうではなく、「人々の」最大の快を求めることを目指しているのです。そういう意味で人々のためになっているのです。

 ここで二つの主義の対立が明らかになったと思います。
 カント的には、結果なんかに囚われずに、いつでもみんなが正しいと思える行動をすることが道徳的とされます。
 対して功利主義的に見れば、人々の幸福を最大化するように結果を考慮して行動することが道徳的とされます。


・本題に戻ると 

 ここで自慰行為の話に戻り、自分なりに状況を整理してみます。
 まずカント的に見れば、自慰行為の対象として女性を手段化することは、確かにその女性に一人の人間としての尊厳を与えてはおらず、道徳的な行為とは言えないでしょう。


 しかし功利主義的に見れば、自慰行為によって自身の快=幸福は増進するし、ちゃんと有償で動画を見ているならば、女性にもお金が入ることで快=幸福は増進するので、違法動画を見るのでなければ自慰行為は勧められるとまで言えるかもしれません(言いすぎかな?)。


 カントは快を情動に突き動かされたものとして反対し、功利主義はみんなの快が増えるならいいことだと賛成する。この二つの基準に優劣をつける審級はあるのでしょうか?


・僕なりのつまらない穏当な言いかえ

 最後にこの動画の反感を買った要素と、僕が思うネオ民さんの真意に触れておしまいにしたいと思います。

 反感を買った要素は、女性差別主義という言葉の指す範囲の違いでしょう。ネオ民さんは女性を手段化する男性全員を差別する人だと考えます。対して一般的に差別するとは、女性は家事をして当たり前だと言い放ったり、女性だからと言って仕事において不当な扱いをしたりすることを言います。それを差別主義者と言って一括りにしてしまうというのは、乱暴な気もします。
 ネオ民さんは自慰行為をされないようです。ただ自己評価で自身のことを潜在的には女性を差別しているかもと言っています。
 そこまで行くと、人は誰でも等しく差別主義者になり、一般的に使う差別主義という言葉の働く場所がなくなってしまいます。

 ネオ民さんは、自身の内面に潜む悪の種、原罪に気づかずに無邪気に行動を起こす人の魂の配慮のなさに対して、軽蔑されているのでしょう。
 だからもう少し穏当にネオ民さんの主張を言い直せば、「だれにでも差別をする可能性があり、それに自覚的にならなければならない」ということになるのではないでしょうか。


[追記]
ネオ民さんが生放送で皆さんの意見に対して受け答えされてました。もちろん意見の不一致がある人もいたようですが、大筋納得されていたようです。


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