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『RRR』批評:火と水のモチーフから

人生で初めてインド映画を見たので、感じたことなどを少々。ネタバレには一切配慮しません。
※「作品」や「テクスト」の解釈は一通りに定まるものではないし、作者が解釈を間違うことも往々にしてあり得る。本稿はその立場に立ったものであることを先に注記しておく。

以下目次。


「火」vs「水」

本作では、二項対立のモチーフがあまりにも分かりやすく提示される。「火」と「水」である。これ以上なく分かりやすい。そう書いてあるからである。

普通に書いてある

"The FIRE"編ではくすぶり続ける炎のような人物としてのラーマ、"The WATER"編では自然と共生し共同体(部族)とともに生きる人物としてのビーム、という形で本作の主人公二人の人物像が描かれている。このことは予告編を見ても明らかだ。

(クリックすると動画に飛びます)

他にも、たとえば"The FIRE"編ではラーマの瞳に火が灯る描写がなされた後、単騎で群衆を圧倒するシーンがある。(彼が押しつぶされかけた時には水音が挿入され、群衆の波と対比する形で、消えざる炎としてのラーマを浮かび上がらせている) ラーマが特別捜査官に昇進してから着用する軍服が赤いのも、火を象徴しているといえよう。対して、"The WATER"編ではジェニーがビームの踊りを「息が止まるほど」素晴らしかったと賞賛しており、ビームの方は水の化身であることを強調している。


二項対立の変奏

先述の通り、本作では「火」vs「水」のモチーフが通底しているが、この対立構造は様々に形を変え、作品の随所に現れてくる。記憶しているうち代表的なものをいくつか見ていく。

「断裂」vs「融和」

一番大きいのはこの要素である。「火」のラーマは(表向きは)帝国に与し同胞と戦う(インド人とも戦うし、警察内でも出世競争をしている)人物であり、目的のためならある程度の犠牲は厭わない様子が描かれる。彼の真の目的は武力による抵抗であり、「白人の心臓に穴を空ける」べく銃を構える。それに対し、「水」のビームの目的はあくまでマッリの救出であり、必ずしも武力を前提としていないように見える。屋敷に乗り込んだ時も真っ先にマッリを探しており、白人を殺そう、復讐しようなどという意欲は感じられない。また、白人の女性であるジェニーに対する態度などからも、温和な性格が読み取れる。

「帝国」vs「植民地」

ラーマが帝国に与する警官として働いていたり、そもそも部族の娘をイギリス人に攫われるところから物語が始まっていたりと、「帝国」vs「植民地」の対比が強く刻まれていることは言うまでもない。そしてこの構図はそのまま、

「文明」vs「自然」

の対応関係につながる。文明的に進歩している(とされる)英国と、自然と共生する部族との対比は、まさに「火」と「水」が象徴するところである。(火が文明を表すモチーフとなりうることに議論の余地はないだろう。)
「火」のラーマが文明的であることは、彼が教養人である描写からも明らかだが、肩車のシーンで彼が上になっていたことも見逃せない要素だ。文明(二足歩行による手の利用)をラーマが、自然(大地との接触)をビームが担っていなければならないのである。あの肩車の上下は偶然ではない。

そうはならんやろ

「個人」vs「共同体」

まさに一騎当千の無双を見せるラーマに対し、ビームが戦う時は必ず誰かと協力している。ここに「個人」と「共同体」の対比関係が表れてくる。たとえば、ラーマは故郷をひとり離れてデリーに向かうが、ビームはマッリを共同体に連れ戻し、さらにラーマを牢から救って同胞として迎えている。この両者の動きは対照的といっていいだろう。
また、この対比関係は彼らの心の拠り所にも色濃く刻まれている。許嫁という、自らが個として愛する者を拠り所とするラーマに対し、ビームの行動動機は村の娘であり、コミュニティに依拠している。これは「断裂」vs「融和」の構図の変形であって、犠牲を厭わず帝国を攻めるラーマと、部族を守ることを第一に置くビームとの対比が強く出ているのである。


手を取り合う二人の漢

本作では終始、ラーマは火のシンボル/ビームは水のシンボルとして非常にわかりやすく描写されている。基本的には対比構造で描かれる両者だが、二人が歩み寄るシーンでは、火と水のモチーフが一つになる様子が何度もみられる。両者の和合のモチーフとして代表的なのが、「蒸気機関車」、「馬とバイク」、「血液」である。

蒸気機関車

序盤、ラーマとビームが出会うシーン。橋を渡る蒸気機関車が事故を起こし、真下の川で巻き込まれた子供を救助すべく、二人は力を合わせる。あまりに運命的な邂逅だが、機関車はまさに「火」と「水」を一つにしたモチーフであるし、出火した車両が橋から川に転落していくさまにも同じことがいえる。また、上から「火」が下降(車両の転落)し下から「水」が上昇(たちのぼる蒸気)する構図は、ラーマはビームを拷問によって跪かせようとする/ビームはラーマを地下牢から引き上げる という構図と対応し、またビームがラーマを「兄貴」と慕う関係性とも符合する。

事故の他にこんなシーンもあった

馬とバイク

二人が協力するアクションシーンは作品全体で二度あるが、どちらのシーンでもラーマは馬に、ビームはバイクに乗る。前章で述べたように、ラーマの火は「文明」、ビームの水は「自然」を象徴するが、これらのシーンで両者が跨るものではそれが逆転している。このことは、対立するもの同士が互いに協力するさまを表しているといえよう。逆に、ビームとラーマが対決するシーンでは、ビームが猛獣を利用し、ラーマは車で屋敷に乗り込んでいる。

血液

血は、火の赤色と水の液性を併せ持つモチーフであり、さらに、争いを想起させると同時につながりを表すワードでもある。ラーマとビームの和合をこれ以上なく象徴しているといえよう。拷問のシーンでは、大量の血を流しながらも決して屈しないビームの姿を見て、ラーマは軍事力だけが武器ではないことを悟り、ビームを逃がすことを決意するのだ。そしてそこから、クライマックスに至るまでの両者の共闘が始まるのである。


補遺

父を殺すこと

ラーマは幼少期、自らの手で父の命を犠牲にしてイギリス兵を追い払うが、ラーマが"父"を殺す構図は物語全体でも共通している。
まず、警察を古巣とするラーマにとって、皮肉にもイギリスは"父"といえてしまう。イギリスに反旗を翻し、スコットを殺すことは、ある意味で"父"を殺すことだと捉えられるだろう。
そして、スコットを殺すシーンでは、ラーマはビームに銃の扱いを指南し引き金を引かせる。この時のラーマの振る舞い("Load! Aim! Shoot!!")は彼の父と完全一致する。しかし異なるのは、ラーマは生還し、かつ何者も犠牲にしていないことである。その点でラーマは父を超えたといえるだろう。これによって、父の死が完成されるのである。

左手で食べるシーンについて

ラーマとビームが知り合い仲を深めていく中で、左手でものを食べて注意を受けるビームを見てラーマが昔を懐かしむシーンがある。インドで左手は不浄の手とされていることは有名だが、このシーンはビームの純真さを表しているのではないだろうか。無垢なビームにとって、食事を左手で取ろうとそれは不浄を意味しない。ビーム自身に不浄さがないからだ。同様に、幼少期のラーマも無垢な存在であったが、自らの手で父を殺し、真意を偽って警察に入り、同胞に裏切り者と揶揄されながら、白人の心臓に穴を空けて殺すという不浄極まりない目標を掲げた大人のラーマは、左手で食事をすることがなくなるのである。

狼と虎と人

"The WATER"編でビームは虎と対峙するが、その直前には狼に追われるシーンがある。一見ここは不要に思えてしまう。初めから虎に追われていたとしても違和感はないし、噛ませ役にしてはチェイスシーンが長すぎるからだ。しかし、この狼にも役割が与えられている。インターバルを挟んだ前半部の最後、屋敷の白人を圧倒していたビームをラーマが倒し拘束するが、ラーマ→ビーム→白人の三者の関係は、ビーム→虎→狼の関係と見事に対応する。その証拠に、前半部ではビームのことを「森を支配する虎」に喩えるセリフが多くみられるし、屋敷に乗り込むビームは虎をはじめとする猛獣を操っている。"The WATER"編で捕獲した虎に対し罪の意識を表明するビームの様子は、ラーマがビームを拘束した後葛藤する描写と対応関係にある。

『アダムの創造』の逆

終盤、キャサリンが傷を負って死にゆく姿をスコットが狼狽しながら見上げるシーンがある。この時画面上では、左上のキャサリンを右下のスコットが見上げ互いが手を伸ばし合う形のショットとなるが、これは絵画『アダムの創造』を逆転させているかのようである。絵画では神がアダムに生命を吹き込んでいる場面が表現されているのに対し、本シーンでは真逆の現象が起きている。

『アダムの創造』




以上、書き殴りの考察であったが、鑑賞中に思ったことをまとめた。本作はストーリーが単純すぎるといえるかもしれないが、構造がわかりやすいからこそ3時間の長編でも混乱することがないし、それでいて細部にも趣向が凝らされているため、飽きることなく楽しめる作品であると筆者は感じた。今のところ一度しか鑑賞しておらず、また考えたことを全て書けているわけでもないので、もしかしたら今後加筆や修正を入れるかもしれない。

ナートゥナトゥナトゥ

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