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カメラと古本が好きなおっさんです

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京都時代の中原中也の集合写真考察-(おまけ)

古写真の撮影地の考察のおまけです。 古写真の裏には 「記念にと思う心よあるものか!思い出は淋しきに 思い出は悲しきに 1924.2.1」 と書き込んであるとのことです。 この記事を投稿した2024年年頭は写真を撮られてから100年なのですね。 この写真の撮影場所の京都霊山護国神社の参道はずっと坂を登らなくてはいけません。今は参道は舗装されてますが、昭和初期に撮られた参道の古写真を見ると階段が続いています。 坂道を延々と歩いてたどり着く境内、維新志士の墓地はさらに急斜面の上

    • 京都時代の中原中也の集合写真考察-9

      長々と京都時代の中原中也の集合写真の考察を書きつらねてまいりました。最後までお読みいただきありがとうございます。 調査に当たりご助言を賜った立命館中学校・高等学校元教諭の西田俊博先生に深く感謝いたします。 中原中也について探求しておられた立命館中学校・高等学校元校長、元副校長の故橋本二三男先生に本調査結果を捧げます 参考文献・参考サイト ・「中原中也詩集」 編 : 大岡正平 (岩波文庫) ・「中原中也全集」 編:大岡正平・中村稔・吉田凞生(角川書店) ・「新潮日本文学ア

      • 京都時代の中原中也の集合写真考察-8

        古写真の撮影地の考察の続きです。 写真1を見ていて生徒たちが斜面を使って並んだにしては各列が横に整然と並んでいることに違和感を覚えました。ただの斜面に生徒が並ぶ場合、立つ位置がバラバラになり横方向がきれいに一列に並ぶのは困難です。何か階段状のものに座ったり立って並んでいると考えられます。 そこでもう一度写真が撮られた頃と近い時期の地図を見ます。 木戸孝允公神道碑の北西に階段があることがわかります。この階段をひな壇代わりにして並んだのではないかと推定しました。この階段を使えば

        • 京都時代の中原中也の集合写真考察-7

          古写真の撮影地の考察の続きです。 次に当時の写真右上に写っていた石垣とみられる箇所をみてみます。 ここには木戸孝允公神道碑が建てられており、周囲は石垣と柵に囲まれています。この木戸孝允公神道碑は1913年(大正2年)に建立されており、古写真のとられた時期にはすでに存在しています。 木戸孝允公神道碑周囲は地形が大きく変わり当時と同じ撮影位置に立つことはできませんでした。写真6では植栽が生い茂り、木が大きく成長していることもあり全体が見渡しにくくなっています。奥にも石の柵がある

        京都時代の中原中也の集合写真考察-(おまけ)

          京都時代の中原中也の集合写真考察-6

          京都霊山護国神社の境内の現地写真を基に古写真の撮影地の考察を進めます。 境内南側にある木戸孝允公神道碑の周辺石垣が当時の写真と特徴が似ており、当時の写真とは建立位置が異なりますが大きさや各部の特徴の似ている大きな六角石灯籠もありました。この付近で生徒たちが並び写真を撮ったのではないかと推測しました。 写真2は境内南端の入り口付近のものです。右側石垣の上部の木陰の中に石の柵が見えます。この奥が木戸孝允公神道碑のあるあたりとなります。道路が境内より低いところ作られていることがわ

          京都時代の中原中也の集合写真考察-6

          京都時代の中原中也の集合写真考察-5

          古写真の撮影地の考察の続きです。 写真にあった斜面ときれいに整形された石で構築された石垣、背後に垂直な石垣などの地形的特徴の内、いくつか合致する特徴を備えていた京都霊山護国神社。この写真が撮られた大正時代は「霊山官祭招魂社」といわれています。文献によっては「京都招魂社」あるいは「招魂社」とも書かれたものもあります。 以下に京都霊山護国神社の地図を示します。 古地図からわかることは当時は入り口は西側にあり、社殿も境内北側に現在のよりも少しこぶりなものが建っています。境内南

          京都時代の中原中也の集合写真考察-5

          京都時代の中原中也の集合写真考察-4

          古写真の撮影地の考察の続きです。 ・地形からの推定 撮影地を訪問して痕跡を探すのですが、都市開発や災害などで地形が変わっていることもあるので古地図も参照してみます。資料として立命館大学アートリサーチセンターの近代京都オーバーレイマップのサイトを参照しました。 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/ModernKyoto/ 大正元年地図、大正11年地図、昭和2年地図、昭和4年地図などを現在の地図を重ね合わ

          京都時代の中原中也の集合写真考察-4

          京都時代の中原中也の集合写真考察-3

          古写真の撮影地の考察の続きです。 ・撮影時期はいつ頃なのか 写真が撮られたのは中原中也が山口から転入して京都の立命館中学に在学した1923年(大正12年)4月から1925年3月までの間に撮られたものです。 この写真は中也の学年の卒業前の写真であるという情報があり、秋の遠足では東寺から徒歩で鳥羽伏見戦跡、石清水八幡宮へと移動したといわれています。この説を採ると撮影されたのは1924年(大正13年)下半期と思われます。 一方で写真の裏面に 「記念にと思う心よあるものか!思い出は

          京都時代の中原中也の集合写真考察-3

          京都時代の中原中也の集合写真考察-2

          この写真の撮影場所を調べるにあたって写真から読み取れることをあげてみます。 ・服装など 中央の教師は羽織袴で和装の正装。大半の生徒は制帽に制服を着用、一部に外套やマントを羽織っている生徒がいます。尚、前列右端にいる中原中也は帽子をかぶっていません。服装から秋から冬にかけての撮影ではないかと考えられます。ただしカバンや水筒など荷物が見当たりません。撮影範囲外に置いたとも考えられますが持ち物が写っていません。このことから荷物を持っていくほど遠くない場所、立命館中学のあった北大路

          京都時代の中原中也の集合写真考察-2

          京都時代の中原中也の集合写真考察-1

          詩人の中原中也は1907年(明治40年)山口の医者の中原家に生まれました。幼少期を神童ともいわれ優秀な成績でしたが、山口中学(旧制)に入ると詩作に耽るようになり中学三年時に成績不良で落第します。そして1923年(大正12年)春、京都の立命館中学(旧制)へ転入しました。京都時代に撮られた写真は数少なくその一枚に立命館中学在籍時に撮られた集合写真があります。しかしこの写真の撮影場所はどこなのかわかっていません。そこでこの撮影場所はどこなのか調査、考察してみました。 次号以降に考察

          京都時代の中原中也の集合写真考察-1