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保健室までの遠回りの途中で


 高校2年生で進路志望を書くとき、私は歴史の先生になりたいと思った。教えることは得意なほうだったし、好きなことを仕事にしたかった。しかし、国公立のみの進学が許されていた我が家では、私の学力は足りず、大学への進学は叶わなかった。父親の「ここからでも大学に行って教員免許をとれる」という言葉に藁にもすがる思いで受験したのは、国立の看護学校だったのである。

まったく未知の看護の世界。「看護」という概念は思ったより難しかった。座学や実習を重ねるうち、看護の奥深さややりがいを感じ、このまま看護師として生きていこうかな、と思うようになった。

そんなとき、こども病院での実習が始まった。

その病院は、新生児から中学生くらいの多くの子どもたちが入院し治療していた。私は脳神経科病棟で実習することになった。

私が担当になったのは、4歳の男の子だった。お母さんと二人で、1000キロも地元を離れたところから治療にきていた。

「今日から実習生として担当させていただきます、よろしくお願いします」

「はい、よかったねTくん!これからお姉さんが遊んでくれるって」

そういったお母さんの顔はどこか疲れているように見えた。

Tくんはとても明るくて、声も大きくて、笑うとえくぼのある可愛い男の子だった。頭に転倒保護用のヘルメットを欠かさずかぶって、病棟を走りまわった。

「僕はいま遠いとこにいるけど、小学生になったらまた保育園の友だちと遊ぶの!」

私は一緒に神経衰弱をしたり宝探しゲームをしたりした。Tくんはとにかく神経衰弱が好きで、私だけでは人数が少なくて面白くないので、ほかの実習メンバーや患児も一緒に遊んだ。あまりにも何度も何度も繰り返すので、ほかの患児の子は3ゲームくらいでいなくなってしまったけど。

実習期間はそうして毎日Tくんや患児たちと遊んで過ぎていった。

ある朝、病棟へ行くと「Tくんの担当よね?」と看護師から声をかけられた。夜間発作を起こしたため、今日は検査をすることになったというのだ。Tくんの部屋へ行くと、彼は眠っていた。

「ごめんね、昨日発作があって、結局ずっと起きてたの。やっと今眠ったところ」

お母さんも夜通し起きていたのだろう、目のしたには濃くクマができていた。私は、今日検査をすることになり、自分が付き添うことを告げた。

「そうなの、よかった。たぶん怖がると思うから、よろしくね」

私は、そんなお母さんの疲れきった顔とTくんの寝顔を見て、夜のできごとを想像して苦しくなった。

私はTくんと手をつないで検査室まで歩いた。入室するとき、Tくんの小さい手がぎゅっと私の手を握って、そして離れた。


検査は無事終了し、Tくんは午後からいつものように神経衰弱を始めた。その日は学生カンファレンスがあって、Tくんの今後についても話を聞いた。

Tくんは退院後地元に戻るが、特別支援学校に入ることになっていた。

私はTくんがいつも言っていた保育園の友だちと遊ぶという夢を思い出した。保育園にはたくさん友だちがいると言っていた。単純な気持ちで、どうにかならないのかと思い、そのことを看護師に質問した。

「そうね…本当は、Tくんの病状なら普通級でもいけそうらしいんだけど、学校から無理だと言われたらしいの。特別支援学校ならサポートも十分だしTくんの安全を考えるとね…」

でもね、とベテラン看護師は言葉をつづけた。

「正直、そうやって断られた子って結構いるのよ、学校で対応できません、わかる人がいませんってね。私たちだっていつもの子どもたち知ってるから、本当はいけるなら普通級行ってほしいよ。」

その現実は私には衝撃的だった。別に、特別支援学校が悪いとかそういうんじゃない、選択できる道が最初から無かったことにされていることにショックを受けた。彼らの選べるはずの道がこちらの都合で消されている。それは自由じゃないと思った。私は憤りを抱えて宿舎に戻り、Tくんとのことを考え、自分の人生と消えかけていた夢を思い起こした。そして一つの答えを出した。

私が、看護師の知識を持った先生になろう。私が、病院や特別支援学校との橋渡しになって学校をつなげよう。

看護学生2年目の冬、私は自分の夢とその行く先を決めた。

実習最後の日、私たち学生メンバーは、Tくんと神経衰弱を時間めいっぱいまでした。Tくんはすごくうれしそうだったし、「明日は来ないの?」と泣いていた。

そしてお母さんは私に、小さなアルバムを渡してくれた。それはTくんとお母さん、そして私がTくんと遊んだり話したりする様子が写っていた。

「Tくんとずっと二人っきりで、毎日不安ばかりだったけど、あなたが来てくれてTくんと一日中遊んでくれて、そしたらTくんも夜寝るようになって、私も自分の時間ができて、自分たちのことをゆっくり考えられたの。Tくんの担当になってくれてありがとう。」

嬉しさと、悲しさと、安心した気持ちがいっぱいになって私は泣いた。


今、学校の指導方法やシステムは変わり、私が学生だった時よりはずっと障がいがある人との壁は低くなっているように思う。普通学校にも特別支援級ができているし、特別支援コーディネイターさんやスクールカウンセラーさんなどの専門職の方々もいたりする。

しかし、実際に障がいのある人・子に出会うなかで、やはりまだ壁はあるのだなと感じる。まだ正規に教員になったわけじゃないから知ったようなことは言えない。それよりこれからもっと知らなきゃいけないこともあると思う。それでも私は、Tくんとお母さんがいろんなことを自信をもって自分の意思で自由に選べるような社会になることを夢見て、養護教員という最初のスタートラインに立つ。


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