見出し画像

例えば「感情を切り離す」ということについて 2024/04/14 -2

人生は道のりだ。同じことを違う角度や視座や視点で何度も学び直したり受け取り直したりまるっと受け取ったりまた切り離したりする。

わたしの人生で1、2を争う問題は感情である。ホロスコープでいえば月だ。厳密にはそんなに単純に切り離せるものではなく全ては緻密に絡み合った調和の中にあるのだが、あえて乱暴に切り離すなら月だ。次に冥王星。もしかしたらこの2つが二極を成しているかもしれない。その2つのバランスを指揮するための太陽であり、その太陽を毎瞬毎瞬調整しながら進む遥かなる道がわたしの歩く道だと思っている。

その道を歩くとき、どこまでも邪魔になるのが感情なのだ。あえていうならば、幼い感情である。未分化の、或いは未消化の感情が、わたしのことを狂わせる。それなのに、色んなことに振り回されて心どころか状況も環境も全て全く穏やかではなく、常に四面楚歌で全く穏やかではなく、世界の全ては敵にみえてしまったりするのがわたしの日常だった。いつどこから何が襲ってくるのかがわからないので、気なんか全く抜けないし、全体を把握しておかないと未来予測や先回りはできないし、気が利いてセンスが良くて痒いところに手が届くハイスペックの持ち主であることを演出するために全力を尽くして自分以外に全身全霊をもって奉仕していた。

今のわたしはここに書いたことをひとつもできていない。できていないというか、したいと思っていない。でも、もしもこれと同じことをできてきるときがあるとしたら、何もしていない結果こうなっているかもしれない。何も頑張らないことにしたのだ。ここでいう頑張るとは自分が他者をコントロールするために尽くす力の全てのことだ。それを使うのをやめた。完全にやめれているかどうかはそのときの自分の健康度に比例していると思っている。

感情は大切だ。でも感情に振り回されていては何も出来ないし、そもそも何も見えない。わたしがみたいのは感情ではない。感情を否定しているのでは全くない。が、感情とは思考の枠故に存在しているものであり、人為的に生み出されているものであるから、自分が自分のことをわかればわかるほど、解放できれば解放できるほど、ただ感じるだけのものになり、それによって引っ張られたり一時的に振り回されたりすることはなくなっていくと思う。それを限りなくなくしたとき、そこに流れる感情、自分の内側にただ流れる感情は、ただ流れているものになる。その場所にいるとき、自分の中にジャッジは存在しない。ジャッジは思考があるから存在する。ここでいう思考とは、成長の中で必要だったから培ってきたこの世界を生きるためのルールのことである。

そのルールにより自分のことを枠にはめて制限して規定しているから、そうじゃないことを教えるために自分が反応した結果感じているのが感情であり、わたしがタイトルに書いた「切り離す」べき対象となる感情のことだ。

ただ、昔は完全に感じることを禁じて切り離してきた感情(感じたくないなら最初からあることに気づかなければいいと思っていたし、そもそも自分には感情なんてないと思い込むくらいにはわたしは感情を抑圧していた)だが、今したいのはそういう意味での切り離しではない。

思考の枠を外すことで、本来の自分自身を知っていくプロセスを通してただ自分が自分であるという状態にあるときは感じなくて済む「道標となる感情」を感じなくしてよくしていく、つまりどこまでも自己受容をしていくこと。その結果、かつて振り回されて困ったような自分の中の感情は出てこなくなるからだ。そもそも枠がなくなったとしたら、不快感や違和感を感じる必要がない。論理的にはそれは可能なはずで、ただ論理的には人間は出来ていないから、成長と需要の中で感じることは変わっていくはずなのだ(枠が変化するから)。その変遷とともに自分を解放し続ければ、感情を切り離すをわざわざしなくていいくらいに感情的になりすぎない自分というのは目指せるはずであるし、そういう風に自分を律せるはず、だ。

つまり、回りくどいが、「自然と切り離された状態当たり前に生み出し続けられるための仕組みづくりとしてのルールを通して見えてくる自分の中にある未消化の感情をどこまでも解放しよう!」ということで、それが常なれば切り離そうとしなくても勝手に切り離された状態がキープされるのではないか(仮)という試みを自分を実験台にしてやってみようということ。

言葉にしてもした瞬間からきっとまたそれは変化するのだろうけど、今この瞬間の自分が思っていること言葉にすることには意味がある。なぜなら、そうしてみてはじめて感じることがあったり気づいたりするからだ。見えない世界をみるため感情を感じるをするために、見えるように形を与える今ここにあるものを言語化する。見えると見えないは、見えないものを見るために、そして見えるものの先にあるものを見つけるために、両方あって初めて成立する。自分という存在もそうだ。ここにある肉体という細胞の集合体と、目には見えないものたちの集合体でできている。見えると見えない、その2つの振動が重なって共鳴しているのがわたしだ。だから、見える世界からのアプローチと、見えない世界からのアプローチと、見えないけど形があるもの(形はないけどあるもの)を使うことで自由になっていくそのスピードに加速度をつけることが出来る。そのスピードが上がることは魂の、そして宇宙の望みであるから、自分さえ止めなければ必ずそのスピードは加速し続ける。振り落とされないことだ。振り落とされないのに必要なのが、止めないために必要なのが、自己受容なのだ。わたしたちは、どこまでも自己受容したい存在なのだ。

全くうまくかけたとおもえないnoteなのだけど、きっと今のわたしにしか書けないものでもあると思うので、あえて不完全なことを引き受けた上でこのまま補足したり付けたしたりせずに公開しておく。このような前置き(正しくは言い訳w)をせずに書くのは無理なのでそれはお許しをお願いして、このnoteは終わりにしようと思う。感覚としては身を削って書いている感じがあってヒリヒリしていて、それは今必要な感覚なのだろうと同時に受け取っている。



2024/04/14 -2 (105/366)


よろしければサポートお願いします!!!いただいたサポートは、必ず循環させていきます!!!