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多様性 ダイバーシティ

生物学だったら、ちょっとした地理的隔離で亜種になりかけな集団も多様性として大切に扱われる。社会で言われる「ダイバーシティ」とかいうのも、多様性の程度というのは、状況によってそれぞれに違うのだろうなあ、と思う。

なので、子どもを産んだ女性、日本語バイリンガルの外国人、障害者(有名大学出身などハイスペック)などが企業におけるダイバーシティの証拠物件みたいに扱われると、ちょっと違うんじゃないの?と思ったり。
証拠物件がマイノリティの権利にがっつり反映されるなら、喜んで証拠物件になるのだけど、PRの理由は世間への言い訳じゃん、この程度のことで社会的責任とか言うなよな、とグレてしまう。

なんというか、マイノリティはマイノリティなのよ。
たまに、そのマイノリティに「すごい人」が混ざってるけど、それは社会がダイバーシティの活躍を促進したからじゃなくて、すごい人がたまたまマイノリティで、たまたまそこに所属して活躍しただけ。

そういうのを一律にまとめて「我が社はダイバーシティを云々」とか言われてもさぁ、というのはマジョリティにとっても本音に近いと思う。
だからダイバーシティは要らない、とは言わないが、広告塔の他薦自薦のギャップが大きすぎるのは、放置しちゃいけない、と思う。

あと、ダイバーシティが、とか言ってる一方で、尖ってる人が煙たがられたり組織から排除されるのも、なんだかな、と思う。ハラスメントとかの明らかなルール違反があるなら排除も必要かもしれないけど、そうじゃないなら改善の原動力にすれば良いのに。

ルンバさんたちとも、私はそういう気持ちで向き合ってる。異質とかめんどくさいなんて主観でいちいち排除してたら、排除の基準は、いつか自分の喉元にたどり着く。ダイバーシティってそういうことなんじゃないの?