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わざわざすることの価値を忘れてはならない

10月12日からインドにいる。
旅行ではなく仕事で2週間程度滞在する機会を持てた。場所はバンガロールと呼ばれる都市。「インドに行ったら人生観変わっちゃうかもよ」なんて言われて出たものの、偏見や知識不足により作られたインドのイメージとは結構はなれるくらいに発展していた。インドのシリコンバレーらしい。

約1週間ほど経ち、週末には広い市内の探検をした。移動はリキシャと言われる三輪タクシー(トゥクトゥクに似てる)にぼったくられながらもぐるぐると。乗ってるリキシャが事故ったり、椅子から大量のアリが出てきたりなどもあったけれど笑っちゃうくらい新鮮だった。

インドで体験したことの中で1番感動したのは右手でご飯を食べること。小学生の時くらいに「右手が食べる手!左手が不浄の手!うんちふく手!」とか言って笑ってたこともあったので、タイムマシンがあったら引っ叩きに行きたいくらいに感動した。

屋台飯はやめておけ。周りからは止められていたけれど、やめろ、と言われたらやりたくなってしまうのが性分(きっと人類はそう)。屋台でカレープレートを頼むと80ルピー(約150円)で腹一杯になるくらい食べられた。

80ルピー(約150円)のカレープレート

郷に行ったら郷に従え。という言葉は初めての土地で1番大事にしているところ。その土地で大事にされていることやそこに住む人の習慣・考え方を肌からインプットしたかった。カレープレートが届いてから1分くらいは周りを見渡し、どうやってみんな食べてるんだろうを探った。きっとおかしな東洋人に見えていたに違いない。

ふむふむ、そうやって食べるのか。理解して実行してみた。カレーをかけたご飯を手で触ったのは物心ついてからは初めてだったんじゃないかな。食材一つ一つ味が違うように、触りごごちも違う。それぞれに残っている温度も違う。その触覚の違いが口に入れた時の味覚と結びついた瞬間に一瞬なみだが出そうになった。身体性の拡張だった。

利便性や安全性、衛生性のためにカトラリーやお箸が導入されてきた。ただそれによって食材を肌で感じる。という機会がなくなっていることに気がついた。冷凍食品や出来合いのもの、ファストフードが発達によって料理人以外は食材に触れる機会もかなり減ってきた気がする。ぼくだって自分で触るのは卵と豆腐・鶏肉くらい。

口にいれているものがどういう感触で、どんな温度なのか。それが味覚と繋がると、食への距離感がよりグッと近づいた。まるで逆あかちゃんみたいだなぁと思う。赤ちゃんの頃は触ったものをとにかく口に入れてしまっていた。レゴブロックやゲームのカセットだって「それ」をより深く知るため、赤ちゃんは赤ちゃんなりにインプットをしている。その逆で、口に入れているものをわざわざ触れてみる。その行為が逆あかちゃんだなぁって。

ぼくたちは気がついたら色んなことができてしまっているのかもしれない。それは食事だけに限った話ではなく、生活の中にもきっとたくさん潜んでいる。

わざわざそんなことをしなくても。日本にいたら手でご飯を食べるなんてことをしなくても食べられるし、ましてや行儀が悪いと言われる。ただ、そういった「わざわざ」が自分の感覚や感性を広げてくれる可能性を秘めている。そのことを忘れてはならない。

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