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風越学園から吹く風は

1.さわやかな初秋の軽井沢へ

軽井沢の空は晴れていた。
新しい挑戦の始まる時空に入る機会を得て、
私は築108年という古民家を出て貸自転車を30分走らせた。

風越学園。教育界の新しい風を感じる人たちなら、耳にしたことがあるだろう。今、日本中に立ち上がっている新しい学校づくりの最先端を行く新しい学校。2020年4月開校。現在、3歳から13歳までの子どもたち194人が通う。

ウェブサイトを見れば、スタッフはあいうえお順に並んでいて、創業者の本城慎之介さんですら、その中の一人。「どんな順番にするのか、ルーティーンじゃなくて、きっと考えたんだな、それが正解っていうことではなくて、考えることを大事にする学校なんだな」ということが伝わってくる。


準備に準備を重ねて、スタッフもその家族も、人生の角度をくいっと変えて、日本の教育の未来を作るために賭けた試み。多種多様な場から学校教育にエネルギーを注ぐと決めて集まった若い力の集合体。

2.来てください。

そんな学校の立ち上げ期に、スタッフの特別研修の依頼を受けた。
すごーくうれしかったけれど、実はちょっと不安だった。

私は学校教育現場に立った経験も、学校に入ってアドバイスした経験も少ないし、感想を求められておずおずと遠慮がちに口を開くと、先生たちのこめかみがぴきぴきと音を立てて「現場のわからない素人が何様?」と慇懃無礼にスルーされた経験が少なからず思い出されるから。

フィンランドの校長先生がクリティカルに直言するのはいいらしいけれど。


しかもまだ始まって半年。鉄は熱いうちに打った方がいいけれど、放っておけばきれいな形になるところを、せっかちに何かを言うことで崩したくはない。全くの勘違いや、これからやるつもりだったことの指摘になってしまうこともあり得る。大丈夫だろうか。

(補足:今回の私の訪問は、これまでのスタッフや様々な学校への継続的支援の下地に加えて、私の持っている様々な情報を提供しフィードバック、研修を行うという条件の下で行われたものです。今は、集中して学校づくりに取り組んでいる時期です。学校のウェブサイトで見学可能のお知らせが出るまでは、見学の問い合わせもどうぞお控え下さいますようお願い申し上げます)

3.これまでの私の学校訪問経験

 大学教員になってから30年近く、教育実習生の実習校訪問を含め、国内外の教育・保育現場を何百も訪問してきた。そもそも子ども2人の保育園から大学までの保護者体験だけで、国内外の合計20校・園を経験している。
 いわゆる普通の学校も、定時制、専門高校、最先端の学校も、スラム街の保育園も、フリースクールもオールタナティブな学校も。競争的な進学校も、余裕のエリート校も、昭和の世界そのままの牧歌的な学校も、ごちゃまぜの無認可校も。
 幼児たちを数メートル四方のコンクリートと鉄柵に閉じ込めている保育所も、山一つが遊び場の幼稚園や裏の砂浜に出れば校庭という学校も、パソコンはもちろん最新の設備を整えた学校も、ノートも鉛筆も持たない子どもたちの通う学校も。
   アフリカも。北米・中南米も、ユーラシア大陸のあちこちも。
 
  学校訪問は、出発前から事前に何回もやり取りをしてやっと見せてもらえることも、旅の通りすがりにふらりと立ち寄ってどうぞどうぞと迎え入れられることもあった。そして、訪問してみると、このまま自分も留まりたいと思う温かい学校も、叱られる声に凍える学校も、みんなが生き生きと暮らしている学校も、大人が自信たっぷり案内してくれるのに子どもたちの表情が硬い学校もあった。

 ソクラテスさんに言われるまでもなく、知らないということは怖いもので、これが「学校」「教育」と思い込んでいると、そうではない世界があって、人の育ち方、育て方にはいろいろあると気づかされる。

 明らかに認めがたい悪い教育(Educational Maltreatment:注1)はあるけれど、それ以外は、結局一人一人の長い人生の中で様々な体験として位置づけられて、結果的に何かを生み出すかもしれない。私の知っている人たちが新しく始める学校が悪い教育をしているわけはなく、そこで私に何が言えるのか、見当がつかない。とにかく見学をさせていただける幸運な機会に、学ばせていただこうという気持ちだった。

3.施設と設備

 風越の校舎は、入るなり、これまでのいろいろな学校体験をまさに走馬灯のように思い出させてくれる場だった。

 間借りから始まる「小さなコミュニティ」から継ぎ足し継ぎ足ししていくところではなくて、じゃーん、と「できてる!!!」

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 とにかく広い敷地、大きな校舎、学校の半分を占めるのではないかと思うほどの書棚、さまざまな工夫に仕掛け。何でも揃う高級ホテルのよう。

 スタッフはもちろん最高。基底に子どもの成長への熱い思いがあって、人によって少しずつ異なる学力や技術や推進力や考え方や人との関係の取り方があって、でも素朴でまっすぐで振り返って考えることができて、自分も人も大切にしようとしている、ほぼ50歳以下の人たちの集合体。

 そして何より私が気に入ったのは、出来ていると言っても、これから使い方を変えていける可動性があちこちに担保されていたこと。保護者たちからも一緒に作っていく学校であるということに合意を得ているという。この学校はどんな「柱の傷」をつけて育っていくんだろうと思うとわくわくした。

4.生徒とスタッフ

 生徒たちは、その中で自分の居たい場所を見つけ、居たいように、やりたいことをしながら、思い思いに過ごしている。

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 これが授業中の様子。大きな声、激しい言葉は聞こえない。あくまでもゆるやかにやさしく、時折聞こえる先生の声のトーンが高めであること位で、その声も広い空間の空気の中に吸収されて溶けていく。

 私も、どこでどう過ごしてもいいと言っていただき、校舎内外をぶら散歩する。話しかけても大丈夫そうな(大概は大丈夫そうなのだけれど)スタッフや子どもたちのタイミングを見つけてよもやま話をする。担任も事務の方も私に区別はつかなくて「大人」がいるだけ。

(こういうことは学校によっては普通なのだけれど、ここに丁寧に「日本のあたり前の学校と違ってびっくりした、感動した」と書いておいた方がいいのかな・・・。そういうことはたくさんあって、それはきっといつかどなたかが書いて下さるだろうから、お任せしましょう)

 私はというと、野外でドングリ拾いをしていた子たちに、自分の子どもの頃のように、あかまんまの実を摘んで大きな葉っぱに包んで見せたり、草刈り作業に入れてもらって草の上にゴロンと横になったり、幼児の乗ったハンモックを豪快に揺らしたり。ちょっぴり意地悪なかまってちゃんの男の子にちょっかいを出されてやり返してみたり。

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 校舎に戻って生徒たちに「読書家のノート」や算数の教科書とプリント、ルーブリックを見せてもらったり、パソコンでの長文執筆やプログラミング、計算問題に取り組む様子をのぞかせてもらったり、自分たちの作品やプロジェクトを説明してもらったりした。

 屋台と販売品を作っている生徒たちや、ビー玉転がしを段ボールで作っている生徒たちや、近くの川に置く足場やペットボトルの筏を作っている生徒たち、プロジェクトの話し合いをしている生徒たち、あちこちでいろいろなことが同時進行しているから、ちょこちょこのぞいては声をかけて話を聞いて、校内をぐるぐる何回も回る。

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 とにかく広い。それは、意識しなければ人に出会えないほどの広さで、生徒たちにとってもきっとそうだ。

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 午後になってからそのことが気になり始めた。

 野外の大人のいない幼児たちのところや、大人が大人っぽくなくて一緒に遊んでいるところでは何となく一緒に入れてもらえたけれど、生徒たちが個別学習で自分の作業に没頭していたりプロジェクトが進行したりしていると途中で声をかけていいのかどうか迷う。だから作業の邪魔をしないようにちょっと声をかけて、短時間で失礼する。

 子どもたちもちょっと距離のある人たちに声をかけるのは難しいのではないかな。まだ開校して間もないし。今の200人が今後400人に増えたらどうなるんだろう?それから、体の小さい彼らに、この広さはどう感じられているのだろう。

 そして気がついたのは、声をかけられるのを待っている子が意外と多いということ。説明したくてたまらないのに一人で作業している。あるいは2-3人でやっていて、誰か他の人に聞いてもらいたくてうずうずしている。やりながらしゃべりたいことってあるだろうけれど、物理的距離が遠い。それに、進度を意識すると寄り道しづらくなるかもしれない。自由度が高いということは、そのペースも自分で決めなければならないから、大変なのだろう。まだ、これまでの「ねばならない」学校文化を背負っていて下ろせないだろうし。気楽に声を掛け合える距離、コミュニケーション能力を高めていける関係ってどんなだろう。

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 もし意識せずにクラスの集まりの時間以外、いつもの2-3人の友達やプロジェクトの友達とだけ一緒だったら、その生徒の人間関係の広がりはできるのだろうか。皆から離れて一人で死角になっているソファにいる子が「ここが居心地いい」と言っていたら、その子が他の子と交わるきっかけは、どの位のちにやってくるんだろう。その働きかけはした方がいいんだろうか。待った方がいいのか。誰がいつどうすればいいんだろう?しない方がいいんだろうか。

 そういえば・・・いろいろな道具が十分な数、整然と並んでいる。

 おもちゃは子どもの数より少なく用意する、は、子ども同士の関係作りを優先する子育て支援のコツ。「貸し借りは対話のきっかけ」「不足は工夫の母」。
 家の中で動線が交差するようにするのはひきこもり対応の環境心理学の方策。「トラブルは人間関係の母」。
 
 なのだけれど、学校において、教材や教具の不足はあってはならないことだよね、たぶん。

 そう、安全、安心、自由、関係、対人距離……全部が満たされている。

https://twicomi.com/manga/yoneharausako/1306233107947741184

絡んでくる子やいたずらっ子に出会わなかった。
騒いでいる声や乱暴な声も聞こえなかった。
先生を罵倒したり、忌避したりしている子はいるわけもなく、逆に、
先生にまとわりついている子も甘えた声を出している子もいない。
水洟を垂らしている子も着衣の乱れた子もいなかった。

嫌な授業から解放された休み時間のバカ騒ぎ、はじけるような笑顔、
深く悩んで暗い顔をしている子、はどこだ?

泣いている子の周りには、いろいろな学年の子どもたちが集まって泣き止むのを待っていた。全然気がつかずにその中に入っていった私は、「一日に5回泣くのよ、この子」という友達の解説にあららと思って、机に突っ伏しているその子の顔をちょっとのぞいたら、薄目を開けて洟をすすっていた。それで養護室に行ってポケットティッシュをもらってきて置いた。しばらくして泣き止んだ後で、その子がわざわざティッシュを返しに来てお礼を言ってくれた。わ、泣き方にも礼儀がある!!

コロナ禍で対面授業の始まりが遅くて、実質的には始まって3カ月。
まだ、汚いところや雑なところ、ごちゃごちゃしたところが生成されていなくて、まぜこぜすら混ざっていなくてきれいにハーモニーを奏でているところ。いわば、スマートな妖精がいて、邪悪なトロールのいない場。

安全でさわやかな風が吹いて、生徒もスタッフも、みんなが揃っていい学校を作ろうとし始めたところ。何でも吸収して前進しようとしているところ。

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リスクはまだ取れない。地は出せない。
なぜならこの学校を始めること自体が目に見えない大きなリスクなのだから。
ここのメンバーになること自体が、一つ一つの家族でいろいろ話し合って決めたことなのだから。

日本の多くの学校関係者の誰もが期待して、早く見たくてたまらなくて、成功を願っている。一方で、小さな傷があったら、そこから傷口を広げたい人もきっといる。

とてもリラックスしているのだけれど、
(広いから軋轢や喧騒やどろどろから距離が置ける。自分とは向き合わなければならないけれど、手元にパソコンがあるからその中を居場所にできる)
目に見えない緊張感の中で、一人一人が最大限の努力をしている。

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スタッフを育てようとし、子どもたちを育てようし、場を育てようとしている岩瀬校長先生の配慮が鮮やかだ。でも、彼も試行錯誤の海を泳いでいる。
(彼がやってしまえばできるかもしれない。でも、彼が主人公になったら風越ではないのだと思う)

そういうものを全部背負って、盾になってしなやかに立っている本城理事長がいる。歳を取ったら熟成した次世代をつまみに酔えるようにしたいね。

これはもう力の限り応援しなくちゃ、そう思った。

5.個別学習

 15年も前だけれど、オランダのアムステルダム自由大学の客員教授として彼の地に9か月滞在していたことがあって、その後も研究で数回訪問している。そんなわけでオランダには教育関係者の知り合いも多い。さまざまなタイプの学校を見学し、その中には(オランダの学校全体の中では少数派だけれど)ライセンスを取ったオルタナティブ校も少なくなく、イエナプランの重鎮、ケース・ボットさんに勧められて2006年10月に日本人研究者として初めてうかがったドクター・スハエプマン小学校などイエナプラン校も数校、含まれている。モンテッソーリ、ダルトン、イエナプランのような個別学習は生徒の学習の自律の度合いが高く、自分の進度で学習を進められるところに特徴があり、今、日本で注目されている。風越学園もそれを取り入れていた。

 そこで、比較のために、まずごく一部だけれど、私の見てきたオランダの個別学習について触れておこう。ちなみに、オランダの全ての学校が個別学習を取り入れているわけではない。日本よりは学校教育制度がずっと自由で、親子は学校も選択できるし(近くの学校に入れる親が多いが)、いろいろな教育方法がある中に個別学習を取り入れている学校「も」ある。

 個別学習と言えば何よりモンテッソーリ教育。就学前教育や低学年では特におもちゃやボードゲームのような教具・教材が充実している。パソコンも用いる。学習はそれぞれのペースで静かに進む。でも、クラスによっては教室の中でみなが交流していて、学習の進んだ子どもたちが、ゆっくりペースの子どもたちの求めに応じて教えていたり、年上の子どもたちが年下の子どもたちの良いモデルになっていたりする。

 次にモンテッソーリの影響を受け、オランダのオールタナティブ教育の中では一番拡がっているダルトン教育。生徒自身が毎週のスケジュールを決めて管理し、それに従って自習していく。声量をコントロールする信号や、話しかける相手とタイミングを選ぶためのマークの設定など、記号による決まりごとを多く用いる。課題達成に対してはクレジットというポイントがもらえる。「自由」と「協同」を柱とし、共に学んだり協同で作業したりしながら、自由な選択肢の中から選択する力や自分の行動を他者に示し他者の行動を理解して対応するための力など、自分で自分の行動を責任を持ってコントロールして自立していく力をつけることに焦点が置かれる。

 それらに対して、イエナプランは、さまざまなオルタナティブ教育の利点を取り入れて、個別学習を軸にしつつ、クラステーマ、サークルタイム、ミニ学芸会やイベントを取り入れて、クラスや学校のまとまりを作っていく。私が訪問した学校の一つでは、ゲストの私も壇上にあげられ、全校生徒の前で歌まで歌ったし、授業もした。ドクター・スハエプマン小学校(私が見た中では、当時、オランダで一番好きだった学校)では職員室の笑いが絶えず、調子に乗った私は折り紙教室を開いたほどだった。

 いずれの個別学習においても、程度の差はあれ、個別学習と全体のまとまりの両方を作り上げることのできる先生の力量が必要で、担任だけでなく全体を見通す専門の先生がいらしたり、学校ごとにエネルギーを集中させていく工夫がなされていたりする。しかし中にはそういった工夫がうまく機能しなくて学校風土が悪化していき、生徒たちが問題を抱えている学校もあった。自由度がコントロールできずに学力低下、バラバラになって学校風土が悪化となれば、学校自由選択制の仕組みの中では、親子はその学校を選択しない。もがいている学校もあったことは、これから日本でオルタナティブ教育を導入しようという動きが加速する際に、情報として伝えておかなければならないと思う。

 ちなみに、彼の地にいる間に、日本の金森俊朗学級の一斉授業ビデオが評判になった。そして、オランダの先生たちからよく言われたことは、オランダの子どもたちは自分勝手すぎる、日本の学級のハーモニーはどうして作れるのか、うらやましいということだった。オランダの先生から見ると日本の教育=金森実践であり、日本の先生から見るとオランダの教育=リーン実践(ドクター・スハエプマン小学校校長)なのだ。うーん。

 教師が、一体感による陶酔にはまって生み出す凝集性の罠にはまらず、全体に教えることで疎外感を味わう子どもを生みだすのでもなく、傷つけあいや比べあいを避けて距離を作るのでもなく、個人の成長だけを目標にするのでもなく、子どもたちが共に生き、共に学ぶことができる学校風土を作ることは容易ではない。

 話が逸れた。
 さて、その他、フレネ、ワルドルフ(シュタイナー)、ヴィゴツキーというように、学校グループに名称が付いたオルタナティブ校もあるけれど、それ以上に普通の学校がバラエティに富んでいて、お互いに近隣の学校のいいところを取り入れるから、教育方法は混在していた(ライセンスを持っている、つまり、正規のオルタナティブ校は、一番多いダルトンでも数%)。日本と同じような旧来の一斉授業を続けている学校ももちろんあったし、それでも国民性として自律を重んじる価値観があるから、おのずと日本とは学校風土が異なっていた。
   
 つまり、学校教育を考えていくには、方法と共に、ベースとなる理念や価値観をどう行き渡らせるか、風土をどう作っていくか、そもそも関係する大人たちが日常の生活を実際にどう送っているかが重要であると思う。
 
 たとえば、カナダの小学校(こちらにも一年以上暮らしていたことがあり、その後も半年滞在するなど、滞在中にかなりの数の学校見学をしてきた)なども、○○という方法を使ってはいないのだけれど、さまざまな国(トロントの場合、100数十カ国)からの多様な子どもたちが集まるなかで、ほぼイエナプランと同じ授業を展開しているクラスもあったし、SDG'sや人権という言葉を出さなくても、自然に授業がそういうものになっていた学校もあった。
 また、北欧の学校は、北欧の風土の上にあって、福祉やウェルビーイングという価値観の沁みついている国民が、互いの国の影響をうけ合いながら、古くからの生涯学習の発想(特にデンマークは18世紀のグルントヴィの頃から)で学校を位置づけているから、日本とは異なった学校観・教育観でものごとが進んでいる。
  
 そういう様々な学校を見てくると、さて、日本でどんな学校を作っていくのかを考えたとき、その方法を見るよりも、そこに暮らす人たちの感情、それを表す表情、醸し出される風土、根底にもっている価値観が大事になってくる。方法はそれらを実現するためのストラテジーなのだから。

 とすると、風越で育てる子どもたちは、どんな風土、文化、価値観の下で育ち、どんな力をつけていくのだろうか。今の穏やかな、軋轢のない、雑味の混じらない風土は、ずっと続くのだろうか。続けるのだろうか。

 個別学習と集団の凝集性の両方が見られる「密」な学校教育が、コロナ禍で作っていけるだろうか。
 
 べたな形容になるが、キャンプファイアーの周りに全校生徒が集まって「燃えろよ燃えろ」を熱唱するような(笑)、あるいは、毎日焚火が焚かれていつも三々五々焼き芋を焼いているような、暖炉の周りにみんなで集まってヒュッゲな時間を過ごすような、コタツがあちこちに置かれてみかんを食べるような、そんな時間を持つような学校になることがあるのだろうか。

6.授業
 と、いうところで、遅ればせながら授業を見ていくことにしよう。

 風越学園の国語は、一人ひとりが自分の「思考の必要な課題」を持って取り組んで、意見を交換して、自分の言語能力を高め、他の生徒の作品を読みコメントをすることを繰り返して、互いに関わる形をとっていた。私の元勤務していた大学で研究協力者になっていただいていた澤田英輔先生の国語愛で、短い期間に生徒たちの力は向上し、生徒たち自身がそれを実感して前に進むという流れが、全員ではないにしても進みつつあるという。これを全員の力にしていくことがどこまでできるだろう。まだ3か月だ。
 個人的には、パソコン全盛の中で、漢字を含む文字の成り立ちや、手で書くという行為にもう少し関心を持ってほしいと思ったけれど、それはおいおいということなのかもしれない。とにかく、ここで生活する12年間にここにある本が全部読めたらなんてすてきなんだと、子どもの頃、本の虫で図書館通いが日課だった私は思う。そうしたら、きっと漢字ドリルに取り組む回数は減るだろう。

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 では、算数はどうだろう?小学校3年生以上は、教科書を自分で読み、理解できないところは仲のいい友達に聞き、それでもわからなければ先生に聞く。あるいは、ICTの出す問題に答えてマルをもらったら先に進む。という二通りの方法を採用し、生徒が選択するようにしていた。

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 後者の方法は、これからの日本のICT教育の先取りで、個別学習を進めて時間を短縮し、その分をPBL(Project Based Learning プロジェクト学習)などの時間に用いようという発想なのだろうと思う。ここで脳はどう働き、子どもはどう育つのか。算数教育の研究の中で解明されているのではないかと思うが、専門でないのでわからない。ただ、私はそれでいいのだろうかと懸念を持っているので、古い世代と笑われても書いておくのが務めだと思う。

 暗記・反復練習は必要かつ有効であると私も思っている。暗算がそろばんで自動的にできるのはとても便利だというのは、生活上の実感だし、漢字や掛け算は覚えていた方がいい。インド式20×20の掛け算九九や日本でも戦後直後まで使われていた割り算九九も生活には役立つと思っている。ICTはそのエクササイズをより効率的にすることを可能にした。
 でも、その前に「物事にはなぜそうなるかの理由がある」ということを肌感覚で身に着けておく必要があるとも思っている。暗記・反復の下地となる論理的思考の形成が大切だと思うのである。
 家庭で日常から論理的、合理的な言葉遣いをしている家族に育てられている子どもの思考は保障されている。風越学園の場合は比較的大丈夫かもしれないけれど、全ての子どもたちがそうとは限らない。

 これはとても大事なことだ。日本の政策を考える人や学校文化になじみの深い人たち、教員たちは、論理的な思考への親和性が高い大人に囲まれて育ってきた人が多い。だから、それが就学前に身についている、あるいは家庭で次第に獲得できるのがあたりまえと思っている可能性が高い。

 でも、実際はそうでない子どもたちがたくさんいて、その子どもたちには、思考の文化そのものへの親和性を育てることから始めなければならない。それを飛ばして暗記に入ってしまうと、思考する力、振り返りや共感の力がつかないままに成長して行ってしまう可能性がある。

 また、逆に子どもなりの思考ルートでいろいろなことを考えている子どもたちは、大人の出来上がった思考とは異なる幅を持って考えているから、それについてしっかりと向き合ってくれる大人がいないと、「自分の思考の棄却」⇒「大人の言うことの丸のみ」が起きてしまうかもしれない。彼らの考えはしばしば大人の狭い思考を超える価値のある考え方だったりするのに。

 たとえば、数を考えるときに、2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2と、同じことを繰り返すのは大変。これを絵図で一つ一つ描いていたり、指折り数えていたりするともっと面倒。ずっと時間をかけて取り組んでいるうちに、掛け算や数式を使うと便利ということに気がつき、式を覚えるという動機付けができる。これを飛ばして本人の準備ができるより前に丸暗記の数式を大人が(パソコンが)提示してしまうのはどうなのだろう。

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(子どもが問題を理解しようとして一つ一つ丁寧に考えながら描いた絵図:小出陽子さん提供)

 公式だから、ルールだからこう、というトレーニングを早期からすることの怖さについてどう考えればいいのだろうか。日本人は算数の計算能力が世界でも高いけれど、応用問題の思考能力はそれに比して高くないと言われてきた。「決められたことは考えないでいいから守る」習性が、さまざまな社会問題を引き起こしていないか。それは根拠のない敷衍と言い切れるか。

(下記アドレスは、このことを考える際に参考になる、私の友人、小出陽子さんのFB投稿。うまく貼り付けられなかったので、どうぞコピペして開いてお読みください。https://www.facebook.com/groups/773953616059770/permalink/798623216926143 )

 リアルでわかる⇒絵図でわかる⇒指でわかる⇒タイルでわかる⇒数でわかる。子どもの特性や育つ環境による面も大きいけれど、もし、具体と数が徐々に結びつけられるようになっていったら、できるようになったことについては、ドリルに入っていっても問題はないかもしれない。  

 今、蛇口をひねることを知らない子どもたちが増えている。手をかざせばお湯が出るから。しゃがめない子どもたちが増えている。洋式トイレが普及したから。それは、人間という生物の進化なのか、退化なのか。

 ペンを持たない子どもたちがどうなっていくのか私にはわからないけれど、持てない子どもたちの中に、持てる子どもがいるといいなと思う。自分で紙に書くという手作業をすることによって、脳の思考と紙の上に書いたものとをつなぐ力が身に着く。電気を使うパソコンに頼らず、それが身に着いて自分でできる人間が残るといいなと思う。

(英語なので、よろしければDeepL でお読みください。News Week日本版でも報じられていますが、まとめが少し粗いので、原文の方がいいでしょう)

(80歳近い習字の先生のことば。「筆は長いからいいの。筆先は柔らかいからいいの。脳が指令を出すでしょう?それが筆の先まで届くには、神経を集中しなくてはならないのです。思うようになかなかならないから、練習して脳の意志が身体に届くようにするのよ」・・・感覚統合に問題のある子どもが増えている今、示唆に富む言葉ではないか)

 実は、個別学習が拡がっているオランダでは、小学校の先生たちの算数の力が非常に低いという。教えられないからICTやドリルを使って採点だけで済ませるということになっていないか。そうやって育った子どもたちが大人になって、先生になるという循環が起きてしまっては困るだろう。

 難しい問題をみんなで意見を出しながら解決していくのではなく、隣のわかっている子に聞いて、わからなかったら先生に聞く、という個別学習を取り入れつつ、集団で問題解決に取り組む経験をどこで積ませるか。それはPBLで可能なのだろうか。イエナプランのように個別学習と集団学習のバランスを取るという理想は私の理想でもあるけれど、それを実行するには教員の力量が課題で、オランダでもこれに苦戦しているイエナプラン教員と学校は少なくないと思われる。
 
 でも、風越学園だったらできる、と私は思っている。

 例えば、難しい幾何の問題に時間をかけて取り組み、補助線を一本引けたときの悦び。これは人生の問題を解決していくときと同じだろう。ただ、数学に対してそういう取り組み方をしてこなかった大人には、この感覚がわからないかもしれない。先生自身が子どもの頃に「考える算数」を体験していないから、子どもたちにそういう算数の教え方ができない。自分が教えるよりも、教科書を自習すればいいということになる。
 
 学生時代に数学の家庭教師をしていた時、私は、自分が問題を解く間、自分の思考過程をずっとぶつぶつ声に出して、隣で生徒につきあってもらっていた。先生もわからなくなって一緒に考える時間が大事だと思っていたし、さっさと答えが出るものではないということを伝えたいと思っていた。解けなくなると答えを見たくなる自分も、それをこらえて頑張って正解にたどり着くところも含めて、まるまる何十分も生徒に見せていた。
 
 みんなで解を導き出す、つくり上げる。ということを教科学習とは別にプロジェクトでやるのか、授業そのものをプロジェクトにすることができるのか。教科書の内容を用いてPBLで身につくような問題解決の力をつけるには教員の力量が相当に必要だろう。日本には教員が一斉授業でここを頑張ってきた歴史がおそらく世界にも珍しいほどあるから、これができると本当に思考が深まり面白い授業になるが、全ての先生ができるわけではないし、それをめざしてうまくいかなかった場合が大変だ。総合的な学習の時間は、オランダで子どもたちの様子を見て賛同した元文部大臣、現学校法人武蔵学園学園長有馬朗人氏が日本に導入を試みたけれど、現場でうまくいかなかった。実際、オランダでもなかなかうまくいかない学校もあって、賛否両論揺れている。
 それでも、海外では国家をまたいでそのための教材が開発されているから、教員はそれをダウンロードして使えばいいとうわさ程度には聞いているが、日本にはまだそういう仕組みが十分には開発されていない(というか、英語が普及していないから、その仕組みに加われない)。
 さらに生徒たちの実態も変化し、放課後の生活も一変している。家庭や塾でどのような勉強をしているかもさまざまだ。情報もインターネットで得られる時代になって、かつては機能した教え方が必ずしもうまくいかない時代になってきている。
 だから、単純化「できる」部分はドリルで済ませて、セルフビルド(自分で自分の学習を作っていく)の時間を作るという代替が役に立つのかもしれない。それは誰にとってどういう面でよくて(例えば、コミュニケーションや認知機能に困難を抱える発達障害の生徒などには学習面においてよい成果をもたらすかもしれない)、生徒たちの生涯発達上、どういう面で気をつけなければならないのだろうか。

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 風越学園には、そのやじろべいの支点を見つけてほしいと期待している。

(日本の全ての学校に、個別学習と集団学習の両方をバランスよく実現できる教員を配置することは不可能に近い。ここでの議論はあくまでも風越学園について書いている)

 他の教科についてもいろいろと書いてみたいが、この原稿も相当に長くなってきたので、またいずれにしたい。学園の進行とともに、プロジェクトの発展と共に、子どもたちの発達の様子はより具体的に見えてくるだろう。

6.研修

 さて、一日目の見学をもとに二日目の午後の2時間は研修をするようにという課題を私はいただいていた。そこで、

1)まず自己紹介をして、皆さんに自分を知ってもらい、(ちょうど一週間前の別の講演会用スライドを流用できた(^^♪)、
2)私の考えている子どもたちの発達とそれを援助する大人の役割について語り、(これまでの各地での研修で使ったパワポを今回用に組み替え)
3)いくつかのオリジナルなワークの風越バージョンに取り組んでいただこうと決めた。(飲み会はウーロン茶に留めて、戻ってから深夜、宿の布団の上で考えた)

 初日の終わりに、

 私の訪問のきっかけを作り、今回いろいろとアレンジして下さった太智くん(リフレクションの勉強会を一緒にしてきた仲間で、私の元の大学の授業で大学一年生たちの心の塊をほぐした井上太智先生。理科についてはまた別に話しましょう)と、飲み会に誘ってくれた甲斐 さん(甲斐崎先生もまた大学の授業にゲストで来てくださった。在校生の小学校の元担任。その結果、学生たちがプロジェクトアドベンチャーを実際に仲間同士でやってみることになった)と、同席してくれたゴリさん (言わずと知れた校長の岩瀬先生)とトックン(FBつながりの風雲児、片桐先生)とサンダー(初めましてでこれからの畑プロジェクトの担当をお願いしてしまった山田先生)には、

 ざっくり感想を伝えたので(たとえば、子ども中心の幼児教育のあり方について、一斉授業の意義と凝集性について、遊びのリスクベネフィットの考え方の必要性について、焚火と暖炉について、等々)、

 研修ではもうそれらのことには直接的には触れないで、学校全体のあり方を皆で振り返るためのキューを置いてこようと思った。

 ファシリテーションのプロが揃っている学校だから、いくつかポイントを示しておけば、きっとその後は続けてもらえるし、必要と思ったら連絡が来るだろうから。

 と、いうわけで、見学の後、私からスタッフ全体へ2時間で伝えたことの概要は以下の通り。一つ一つにもっともっと解説が必要だなあと思いながら。

レクチャー)
 我々の祖先のように、1000年後を考えて、今の行動を選択する。
 赤ちゃんから死ぬまでの生涯発達と学びを考える。
 そのために体と心と脳(知)の年齢に応じた発達を知る必要がある。
 経済的豊かさと社会的地位は精神的な健康度を保障しない。
 先進国の子どもたちの育ちを脅かしているものがある。
 日々の生活の中で養われる感性を奪わない環境づくり。
 体験の貧困(社会的剥奪)にどう対応するか。

ワーク)
 以下、プレイワークの研修で用いられることの多い1のワーク以外は、
私のオリジナルのワーク♬。大学の授業や子育て支援系の研修ではいつも参加者の様子を見て思いつくとは新しいワークを開発して次の機会に実践してきたけれど、あまり教育現場の研修をやる機会がなかったので、教育現場でできるのはうれしい。

(1)子どものころ楽しかった思い出は何か。
   風越の子どもたちはそれを体験しているか。 その場に大人はいたか。
    ・・・育ちの中の大人の役割を考えてほしいから。

(2)子どもたちの24時間の学びと育ちの実際
   子どもたちの地域は? ローカルのベースづくりは?
   家族とスタッフ以外の大人、異年齢の存在とのかかわりは?
    ・・・移住してきた関係者たちの地域コミュニティをどう作ってい
       くか。来週から保護者面談があるそうだから。
   それぞれの時間における体と心と脳の成長は?

(3)どんな集団の中で育つとどう育つか?
  絵画やコラージュを用いて考える方法。今回は生徒たちの作品で実施。
    多様性(集団の中の個性)
    凝集性(集団の中に溶け合う一体感)
    折り合い(適度なコミュニティ感覚)
   それらの中での、人の個人として、集団としての成長。
     ・・・これらをどう確保していくか、
        これから折に触れて考えてほしいから。
        この文章で書いたことも含めて。

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(このワークは、図工の岡部先生の生き生きとした授業の生き生きとした絵画からヒントを得て、実施することを思いついた。写真は直接関係ないけれど図工の材料銀行。最近の図工は最初からキットが配られることもあるから、このごちゃごちゃ感がうれしかった)

(4)3つのリフレクション
  (複数あるワークは一つ2時間はかかるので紹介のみ)
   ミクロ・メゾ・マクロのリフレクションの簡単な解説。
     ・・・リフレクションの概念を広く考えてほしいけれど、
        考え方だけしか紹介できなくてちょっと残念。
        コルトハーヘン氏に説明したら、共同研究しようと言わ
        れたけど、うっちゃってるな、という内容。

(5)卒業生が自分の年齢になったとき、こんな大人だったらいやだな!
           仮に、S,A,B,C,D という具合に評定を考えたときに、
   S( special, super, superior, splendid, すごい、すばらしい、最高),
   ではなくて 、
     D( damage, demon, danger, どうしようもない、どべ、どんじり)
   を考えるワーク。これは刺激的だったみたい。面白かった。
    ・・・みんなの書いたポストイットをながめて、これからの子ども
       たちの成長につながる援助を考えてほしいから。
       ガンジーは、「読み書きの力は悪事にも使える」って。

(6)風越スタッフの「人間の発達観」づくり   
   子どもたちの体と心と脳の発達は?
   (時間がなくてできなかったけれど、必要性だけ伝えておく。
    このワークは知識と時間と技がないと難しいから、いつかまた機会
    をいただけたら)

 最後にグループで感想を言い合ってもらって、2日間は終わった。
 帰りはゴリさんの車に自転車を乗せてもらって、宿までおしゃべりしながら送っていただいた。私はこの体験を書くんだろうか?是非、とゴリさんは言ってくださった。

7.最後に
 今、先進国のリベラルアーツ大学では、学生たちを発展途上国に留学させる試みがなされている。また、かなり前の試みだが、オーストラリアの進学校が、生徒たちを山に連れて行き、その不自由で非合理的でもあるキャンプの後で、生徒たちが大きく成長するというビデオを見たことがある。

 子どもたちの発達が以前と変わっている。社会も変わっている。その中で未来のある子どもたちにどんな力が必要なのか。

 一人一人に完璧なアメニティが配布される軽井沢のホテルは魅力的だけれど、そこに居ては見えない地元の社会をどう見せていくかを意識することも、社会を担っていく子どもたちには大切なのではないか、
   ・・・ともはや古き時代の人間に入りかけている私は、108年を経てもなお古びていない建物の中で思っていた。

 学校を作る。よき学校を作る。誰もが思い描くその夢を、ここで実現している関係者の皆さんが正直うらやましい。いろいろと書いてきたが、すごいスタートを切ったとしか言いようがない。その場に2日間も居させていただいて(その前後も含めて4日間滞在した。私は、研修の際にはできる限り前後にその地域を回って子どもの養育環境をリサーチする)、本当に有難い経験をさせていただいた。お名前を挙げられなかった方も含め、すべてのスタッフの皆さんに、心から感謝している。
 私の文章をきっかけに、侃侃諤諤、議論が始まってくれることを願っている。また、是非うかがわせていただければと思う。
 風はすでに吹き始めた。

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(番外編)伝えきれなかったことメモ

1)ICTとの付き合い方について
 長時間のICT利活用がデフォルトの学校。そこで、子どもたちにメディアのリスクベネフィットの議論を伝えて、自分たちの将来の健康のこととして自分たちで考えてもらうのが最善策。

2)「遊ぶ」と「学ぶ」のつなぎ手となるスタッフのあり方について 
 子どもの頃から自由に遊ぶことを学んでいない生徒たちに、まずは無心で遊べる環境ときっかけを与える必要がある。それができる子どもたちを最初に育てて、その子たちが周囲の子どもたちに伝承される仕組みを作るまで、それを伝えることのできる大人の介入が求められる。保護者を含む他の大人たちが、遊ぶことの意味を理解していることも大切。遊び心と遊ぶ技術は、今の生活の中からは失われがちだから、意図的でないと継承されない。
 遊びの要素はどの教科の中にもあるが、あまり意識しないで進められるのは芸術系教科。その辺りについては子どもの発達の知識があるといいだろう。
 また、パソコンの中を安全な居場所としがちな生徒たち(それはスタッフたちも保護者たちも同じかもしれない)が、自然とのつきあいや人との付き合いに居場所感覚を持てるようになるには、どんな仕掛けが必要なのか。その仕掛けの出来る大人をどう配置するか。人材活用の仕組みが必要だろう。(ということを考えるワーク、作戦会議、からかな)。

3)体験の貧困(社会的剥奪)をどう補っていくか。たとえば、赤ちゃんを育てる際の基礎知識も技術もない親が増えている(つまり、家庭が、人としての営みについて伝える場になっていない)状況に対して、学校は「人を育てる」という観点から、どう動くか。義務教育終了までにつけるべき基本の力は何で、それを家庭と地域と学校でどう分担するか。

https://www.zaidan.shiseido.co.jp/activity/carriers/publication/pdf/vol_79.pdf武田信子 貧困と幸せを考える (特集 社会的養護と子どもの貧困) -- (今ある「子どもの貧困」とは何か) 世界の児童と母性 = Mother and child wellbeing around the world 79, 11-18, 2015-10 資生堂社会福祉事業財団

4)その他、別のワードファイル「風越メモ」を用意して、思いついたことを書き留めている。

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注1)Educational Maltreatment については、
 note の記事で、教育虐待(Educationl Maltreatment)
   https://note.com/nobukot/n/n6e61aa5b71ce
あるいは、わかりやすい説明は、
 健康教室 2019年11月号 Information PLAZA 
 Educational Maltreatment とは 武田信子  
 https://www.higashiyama.co.jp/products/detail.php?product_id=452


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#教育改革 #学校教育 #自由 #学校建築  

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