見出し画像

「遊ぶ=学ぶ=育つ=生活する=生きる」

私は、Facebookグループページ「遊ぶ・学ぶ・育つ」の管理人の一人です。

このグループは、国連子どもの権利条約第31条
「締約国は、
 休息及び余暇についての児童の権利、  
  並びに
 児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行う権利、
  並びに
 文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利 を認める」
という条文を説明するために後に作られた
 「ジェネラルコメントNo.17」 
の趣旨を伝えるためのグループとして、2015年に始まりました。
7年後の今、改めてグループの名称について確認したいと思います。

最初に31条をもう少し丁寧に訳しておきます。この条文の意味は、
「(日本を含む)締約国は、
休息(レスト)及び「やらなければならないことから離れて自覚的に自由に自分で行動を選択して過ごすような質の高い経験を持つ時間」(レジャー)の権利
・発達に即した遊びや再創造(レクリエーション)の活動を楽しむ権利、
・自由に、文化的で芸術的な生活を過ごす権利
を認識して実現しなければならない」ということです(武田文責)。

今から50年前、1970年代半ばに、知能テストで測れるIQや学力テストで測れる学力以外の力、むしろ学力の基底になる力として、  
  non-cognitive な(非認知(的)と訳された)   
  skills(「複数の技術・技能」が、スキルではなく能力と訳された)
が大切であるという研究論文がアメリカで発表されました。

今まで、
「人の能力=学力として学校教育で測定・評価されてきたもの」
つまり、
「自分の脳が、生きているだけで大量にインプットされてくる情報(の中から自分にとっての意味を)を認知する能力、すなわち、知識として蓄積し(覚えて)、学業や仕事、生活の中で活用する、思考、読解、学習、記憶、推論、注意などの認知能力」
以上に、
「非認知能力=社会生活における情動やコミュニケーション技術などの
『社会情動的な技術』   
  ・目標の達成(忍耐力・自己抑制・目標への情熱)   
  ・他者との協働 (社交性・敬意・思いやり)   
  ・情動の制御(自尊心・楽観性・自信)
   (OECD=経済協力開発機構による具体的定義)」
が重要であるという指摘がなされたのです。

これらは、いわゆる、前頭葉の前頭前野がつかさどると言われる知能(IQ)と概念が重なりますが、知能とは異なるものです(丁寧な議論がなされています。いろいろな学説がありますので、ここでは触れておくだけにします)

実際のところ、そのような「力」が大切であるということは、
多くの人が経験的に「知っていました」。

ですから、例えば この言葉が日本に伝わる前の1984年に、
・「頭ばっかりでも体ばっかりでもだめよね!」というプチダノンのヨーグルトのCMが大ヒットし (でも、このときは、頭も体も、という理解がなされ、「その間の能力」を意識していた人は少なかったかもしれません)、

学力偏重傾向のあった日本でも、
・人間性、といった言葉で表現されるものが大切にされたり、
・人事面接で
 「とにかく学力よりも明るい人材が欲しい」
 「部活などで培ったリーダーシップや対人関係能力で採用する」
 「学力だけだと女の方が上だけれど、男でないとノミ(飲み)ニケーションできない」
 といった言説がささやかれたりしていたのだと思います。

そこに「アメリカの研究」というお墨付きができて、
非認知「能力」というわかりやすいキーワードが
概念をとりまとめるヘッダーとしてつけられて、   

経済学者や経済協力開発機構が、   
成功するビジネスパーソンへの道として着目し、
教育や育児の文脈ではなく、
経済学の観点からこの問題が論じられるようになったのです。

(人間の能力、というよりも、ビジネスにおいて成功するための能力、
 しかも「スキル=技術」に着目されたことに留意が必要でしょう)

そこで、(技術ですから)
非認知「能力」を「身につけさせる」のに最適な活動が「遊び」だから、
子どもたちを「遊「ばせ」て、非認知「能力」を身につけ「させ」よう」という流れができたのは、自然な流れだっただろうと思います。
(これを遊びの目的化、ひいては商業化と呼びたいと思います)

そこには無意識に「この社会においては、成功者こそが求められる」「成功者が幸せである」「成功者を育てなければならない」という価値観が存在しているようです。

また、アクスライン、ウィニコットを始めとする精神分析家、心理学者たちも、心の成長や安定に遊びが重要な役割を果たしていることに気づいていて、それを治療に用いていました。PLAY THERAPY(プレイセラピー遊戯療法)と言います。

でも、それは患者さんたちに用いられる技法であって、
当時、一般の子どもたちは普通に遊べていたので、
それが特に普通の子どもの成長発達に不可欠であるとまで主張されることはあまりありませんでした。
(ですから、心理学や精神分析の理論と遊びに取り組む人たちがなかなか結び付きませんでした)

しかし、
発展途上国ではむしろ当たり前の自然環境や生活環境が今や先進国において失われ、社会情動的スキルが自然に身につかなくなってきていることの問題により早く気付いた人たちがいました。戦争や災害など、子どもたちの危機的状況もそういったことに気づくきっかけとなりました。

中でも、高学歴、高収入で社会的地位が高く、情報収集能力に長けた一部の人々は、自分の子どもたちを、より豊かな自然環境の中で自由に遊ばせる保育や教育を選び始めました。

認知能力だけでも非認知スキルだけでもなく、
両方を含む包括的な能力を身につけさせるにはどのような環境がいいのかについて、経済的にも余裕のある大人たちが考えるようになりました。

そうして、自分の子どもたちを、
より自然の豊かな土地で育てようと移住したり、
自由度の高い学校や保育園を作ったりするようになったのです。
これは世界中で起きています。

ところが、一般的な親たちは自分の得た部分的情報に従って、  
 学力をつけることを至上目的とする、  
 何となく遊ばせる、育てているだけで育つと思う、  
 成功のために目的的に遊ばせる、
という行動をとりがちです。

子どもの発達をホリスティック(全体的・包括的に)に理解していないために、部分に目が行ってしまうのです。
特に今、学力や社会経済的地位を大切にする日本で起き始めていることは、
「成功のために目的的に遊ばせる」ことでしょう。
よいことだから促進しなければ、という文脈で、これが始まっています。

実は、私の仲間たちが2000年代に「子どもの遊びと大人の役割研究会」というグループを作って活動していたときに、メンバーの天野秀昭氏が
遊びに意義なんてくっつけるものではない、「ためにする遊び」を流行らせてはなたないと口を酸っぱくして訴えていました。

とてもよく覚えています。
私は、天野氏の考えはよく理解しているつもりです。でも 一方で、

なにより遊びの具体的意義や効果、学びとのつながりを伝えていかないと
人の発達における遊びの大切さがあまりにも理解されないと考えていましたので、

「遊ぶ・学ぶ・育つ」という名称のグループをFB上に作り、
遊びの意義を、特に学校教育関係者を意識しながら、
伝えようとしてきたのです。

(あえて、遊ぶことで学力が向上する、という研究結果を、講演のスライドに入れたりもしました)

学校教育関係者を重点的に招待し、迎え入れてきて、
既に遊びの推進をしている人たちを中心に置かなかったのはそのためです。
おかげさまで、今、3800人ものグループに成長しました。

(投稿希望で一番多いのは、「ためにする遊びの宣伝・広報」になのですが、それらは掲載を控えさせていただいています。改めてどうぞご了解の上、熟慮の上、ご投稿ください)

さて、今は、学びは遊びだ、遊びは学びだ、ということが随分言われるようになりましたので、既に書いてきたことの繰り返しになりますが、
もう一度、次のことを強調したいと思います。

「人間は、生まれた直後から、自分の生きている世界を理解するために、
科学者のようにさまざまな実験

(ここを動かすと何が起きるかな、これをすると周囲にどういう反応があるかな、自分が影響を及ぼすことのできる範囲はどこまでかな、など)

を繰り返しながら、世界のあり方、ルールを掌握しようとする取り組みを繰り返していて、

それは人間の赤ちゃんにとって、
 生きるということであり、
 人と共に文化的で芸術的な生活をするということであり、
 学ぶということであり、
 世界が理解できるようになるという楽しいこと=遊ぶということだ」

 《遊ぶ=学ぶ=育つ=生活する=生きる》

赤ちゃんの頃は、この5つが区別されていないのです。

これが成長に伴って、大人によって、だんだんと分化させられていきます。

大人は、乳幼児や子どもに「こうさせたい」と思うことを教え込み、学ばせようとするのです。遊びでさえも「こう遊ばせたい」が先に立つことが多いのです。ほとんどの大人は、分化した視点で、乳幼児や子どもの行動を観察するのです。

でも、赤ちゃんと共に過ごすときには、いつの間にか大人が身に着けてしまったこの5つを分けて考えないようにする訓練が必要かもしれません。赤ちゃんの側に立って、今、この赤ちゃんは何を知りたい、何ができるようになりたいと望んでいるか、と考えれば、それが遊びになり、学びになり、生活であり、生きるということなのですから。

どうかこれらを分けないでください。出来るだけ長い間、小学生になっても中学生以上になっても。本当は大人になっても。

生きて生活していることそのものが新しい学びを生むワクワクした状態、
時にはさらにフロー状態であること、をたっぷりと味わってほしいと思います。そういう大人、たまにいますよね。

私は自分もまた、高齢になって、
残りの人生を、この5つ+働く、の6つが常に一致するような生き方をしたいと思っています。
みなさんはいかがでしょうか。

#赤ちゃん #遊ぶ・学ぶ・育つ #子どもの権利条約 #遊ぶ権利
#発達 #ジェネラルコメントNo .17 #非認知能力 #社会情動的スキル
#一般社団法人ジェイス



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?