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『ジャーナル・リュミエール』創刊準備号発刊に際して


表紙 白濱


ご挨拶
2023年9月10日。弊サークルは47冊目の同人誌を刊行予定です。ジャンルは「映画」。2021年9月、サブカルチャー誌『REBOX2』で「反映画」という特集を組みました。とはいえ論考で取り上げた作品はアニメ中心でした。このたび地方都市圏の書き手が集まり、実写映画を主に扱う同人誌を作ります。数本の映画評のほかに映画関係者のインタビュー記事を併録予定。論点が多角的で、情報の質量を兼ね備えた総合映画誌を志す所存です。著作権の問題で映画の図版などの使用は控えますが、映画にあやかった挿絵や写真をふんだんに掲載する方針です。のっけから高い理想ばかりを掲げてしまいましたが、まずは「創刊準備号」として小さな石から積み上げていこうと思います。全国の映画ファンに新しい風がささやかでも吹くよう精進してまいります。
以下は9月の冊子に掲載予定の「巻頭言」と小特集「ゴダールの世代」の一部記事の下書きになります。不勉強ゆえ至らない点が多々あるとは思いますが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。


扉 白濱


映像の海の羅針盤として
『ジャーナル・リュミエール』創刊準備号に寄せて 
沖鳥灯

 一九九〇年代末から二〇〇〇年代初頭の私は、アテネ・フランセ文化センター、国立近代美術館付属フィルムセンター(京橋)、新文芸座、ACT・SEIGEIーTHEATER、新宿昭和館、テアトル新宿、法政大学学生会館、東京日仏学院、三百人劇場、草月ホール、BOX東中野、ラピュタ阿佐ヶ谷、早稲田松竹、ACTミニシアター、シネ・ヴィヴァン・六本木、俳優座トーキーナイト、アップリンク・ファクトリー、シネマライズ、ユーロスペース、シネセゾン渋谷、パンテオン渋谷、TOLLYWOOD、銀座シネパトス、シネスイッチ銀座、シャンテ・シネ、大井武蔵野館、キネカ大森、川崎国際などで開演前の座席に深々と腰かけ、薄暗い照明の下、ボロボロの文庫本を読みふける凡庸な貧乏学生のひとりだった。
 映像とテクストの往還。映画と本の対話のほかは日常的な会話を控え、沈黙の生活を続けた。端的に絶望の淵にいた。が、いま振り返ればなんと魅惑的な日々であったろう。映像とテクストの邂逅は、映画評論の淀川長治、蓮實重彦、四方田犬彦、ジル・ドゥルーズから小説のマヌエル・プイグ、阿部和重、中原昌也という変遷を辿った。映画と本に青春のすべてを燃やした。その後ご多分にもれずひとりの凡庸な映画青年は大人の階段を踏み外し、人生の挫折を味わった。帰郷し、二十年の時が流れた。ひょんなことから映画誌を創刊することになった。
 昭和天皇と同じ誕生日のフランス文学者で映画評論家の蓮實重彦責任編集『季刊リュミエール』(筑摩書房)は一九八五年秋に創刊された。本誌は『季刊リュミエール』の後塵を拝し、映画館やカフェで気軽に読める「映画新聞」を目指す。
 蓮實は「趣味の良さ」を演出するタイプの映画評論家だろう。対して中原昌也は「悪趣味」を掲げて一九九〇年代に蓮實のカウンターたらんとした。二〇〇〇年以降、映画は教養映画と大衆映画に二分された。そして近年のネット配信サービスにより映画は新時代へ突入した。
 本誌は映像氾濫の時勢において「リュミエールからアンダーグラウンドまで」と宣誓しよう。映画の起源「光」のリュミエールと地下劇場のアンダーグラウンドを衝突させること。そもそも映画(シネマトグラフ)の誕生は、パリはグラン・キャフェの地下「インドの間」で「リュミエール工場の出口」「列車の到着」「水をかけられた撒水夫」などが一般上映されたことから始まった。一八九五年十二月二十八日のことだ。リュミエール兄弟(兄オーギュスト一八六二—一九五四 弟ルイ一八六四—一九四八)はピカソ、マネ、ルノワール、プルースト、バタイユ、ジョイス、ウルフ、ヘミングウェイ、スタイン、カフカ、フロイト、アインシュタイン、マルクス、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、夏目漱石、志賀直哉、岡本太郎らと同時代人だ。新生芸術の黎明期と古典芸術の爛熟期。
 私は名古屋大学映画研究会(一九九四—一九九七)、イメージフォーラム付属映像研究所(一九九七—一九九八)、日本大学法学部映画研究会(一九九九—二〇〇三)に所属していた。PFFやイメージフォーラム・フェスティバルに憧れて自主映画・個人映画を制作した。主だった受賞歴は皆無であるが、石井聰亙、黒沢清、塚本晋也らの自主映画を始め、無数の学生映画を鑑賞した。それは出身地の愛知と転居先の東京に留まらず京都にまで及んだ。古典的名画からインディペンデント映画までを包含すること。反権威・超時代の映画鑑賞を同時的に行うこと。本誌は読者に無視される覚悟をもって映像の大海へと錨を揚げる。
 二〇二二年は「映画最悪年」として語り継がれるだろう。青山真治、ジャン=リュック・ゴダール、大森一樹、ジャン=マリー・ストローブ、雀洋一、吉田喜重らが亡くなったのだから。危機感を抱いた私は以前より興味を持っていた関西と沖縄の映画好きの学生に共同で映画雑誌を作らないかと打診した。四人は快諾してくれた。だが映画雑誌を作るのは弊サークルの文芸同人誌とは勝手が違う。慎重な準備期間が必要と考えた。本誌は創刊準備号として東海・関西・沖縄エリアの小グループで二〇二三年九月に発行予定だ(イラストレーターは関東甲信越エリア)。運営が軌道に乗れば寄稿者と販路を拡大方針である。
『季刊リュミエール』創刊号の特集は「73年の世代 ヴェンダース エリセ シュミット イーストウッド」。ジョン・フォードが亡くなった一九七三年に頭角を現した映画作家たちを取り上げた。彼らは一九五九年パリのヌーヴェル・ヴァーグの作家たちのように「一つの目的を共有しつつ結成されたグループではない。スイスとか、ギリシャとか、スペインとか、これまでの映画産業の進展に多くの貢献を示したとはとても思えない土地で、まったく散発的に、しかもおのれの試みの未来を深く確信することもなく起こった孤独な作業がこの世代を決定づけている」と四十九歳の蓮實は述べた。
 本誌メンバーの居住地である、愛知、京都、沖縄はスイス、ギリシャ、スペインのような映画的に辺境の場所とは言い難いのかもしれない。だがツイッター上の希薄なつながりでおよそ従来の「同人」とは異なるメンバーで構成された「一つの目的を共有しつつ結成されたグループではない」同人誌とは「73年の世代」のような「散発的」で「孤独な作業」を余儀なくされるものだろう。
 その世代から五十年を隔てた二〇二三年。本誌は「ゴダールの世代」を小特集する。巨匠ゴダールの影響を受けた映画監督を論じる。モーリス・ピアラ、北野武、黒沢清、青山真治らを予定。また関西の映画施設代表のインタビューを掲載予定だ。次号からも東西、古今、硬軟、性差を問わず自由な映画鑑賞を編集方針としたい。
 映画と自己を重ね合わせることは両者の転落をもたらす。だが融合による破裂の行為こそが「時代閉塞の現状」(石川琢木)を打ち破る力ではないか。映画は「鏡=脳髄の遮蔽幕=イマージュ」である。ナルシシズムの突破は鏡に亀裂を生じさせることだ。まず鏡へ自己投影し、対象分析をほどこし、まなざしの熱で自己とフィルムを灰燼に帰すこと。映画の内的焼尽こそ忘我で社会を開く道であろう。本誌は映画を焼き尽くすボーダレスな羅針盤でありたい。そのためには暗闇の光を見つめ、映像の星座と自己の倫理を照らし合わせなければならない。
 なお創刊号は二〇二四年九月の文学フリマ大阪で初売りの計画である。今後ともよろしくお願い申し上げる。

小特集 ゴダールの世代
北野武の神的暴力 ローレ、ベルモンド、大杉
沖鳥灯 
 
 両者の隔てる絶対的に区分される光景を提示する試みの前提として、ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(一九六〇)と北野武『その男、凶暴につき』(一九八九)は、法と正義の関係を暴力によって批判的にフィルムで定着させた。
 両作は戦後の法治国家でブルジョワが急速に堕落してゆくなか警察とヤクザを描く。ゴダールと北野を革命的な監督と捉える傾向は強いが、法維持的暴力で滅びる下層階級を扱い、政治的ゼネストの暴力革命とはほど遠い。しかし二人は学生運動の時代を経験している。端的にプロレタリア・ゼネストを扱う作品は思い当たるが本稿では神的暴力の革命に傾注する。
 一九四〇年六月ナチス・ドイツのフランス侵攻で、パリ陥落・フランス降伏時、ゴダールは九歳だった。他方、一九四五年敗戦から二年後の焼け野原の浅草で北野は生まれた。つまりゴダールと北野は戦勝国における法措定的暴力の最初期に幼少年時代を送った。両者ともに暴力の渦中にいたことになるが、むしろ作品と作家の関係を論じるのは極めて暴力的だろう。だが分別顔で作品と作家もしくは虚構と現実に境界を設けることも暴力だ。両者は緊密にして微細なモザイクである。作品は作家の無意識の反映であり、それがひとつの作品ひとりの作家が生み出す強度ではないか。とはいえ劇映画は集団で制作される。ひとりの芸術家がロマン主義的な霊感によって創造するものではない。ジル・ドゥルーズはゴダールについて以下のように述べる。
 
 ゴダールは創作者であるよりもプロダクション事務所でありたい、映画人であるよりもテレビのニュース番組をとりしきるディレクターでありたいと公言してきました。(略)さまざまな労働を抽象的な力によって計測することをやめ、労働のモザイクをつくりたいというものです。
『記号と事件』(宮林寛訳、河出文庫、八八─八九頁) 
 
 ゴダールの発言は、北野がコメディアンであることと響きあう。ところで北野はゴダール以上にジャン=ピエール・メルヴィルの影響を隠さない。ゴダール監督作品で『シャルロットとジュール』(一九五八)『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』(一九六五)に主演のジャン・ポール・ベルモンドはメルヴィル『いぬ』(一九六三)にも出演した。「いぬ」(原題「LE DOULOS」)とは警察用語で「密告者」(原題は「帽子」の意味で邦題と同じく「密告者」の隠語)。シリアン(ベルモンド)はモーリス(セルジュ・レジアニ)から密告の疑いをかけられる。『勝手にしやがれ』はゴダール演じる通行人が、逃走犯・ミシェル(ベルモンド)を通報し、米女学生・パトリシア(ジーン・セバーグ)はミシェルを警察へ密告する。『その男、凶暴につき』は刑事・我妻(北野武)が麻薬の売人・橋爪(川上泳)を暴力で自白させ、我妻の同僚・岩城(平泉成)がコカインの密売犯であることを突き止め、新署長・吉成(佐野史郎)へ密告する。
 これらの密告により暴力が発動して登場人物たちは死を迎える。
(以下は本誌で)
 
※創刊準備号の初売りは2023年9月10日開催の文学フリマ大阪の予定。BOOTH通販、東海・関西などの映画館での販売も計画しております。
  

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