音楽批評を批評する試み・・・「【再び】視聴者の即興動画に辛口コメントする配信」(加藤綾子、2023年9月5日)を聴く!

自己のfacebook連投から動画の視聴感想を以下のようにまとめ、加筆・修正した。

最初のエントリー動画のウッドベースはうまいんだけど、ソロ・ミュージシャンとしては次鋒のdsfaplsのほうが段違いに完成されてますね。僕は十秒も聴くとそこを感じる。その違いが何なのかが「即興の質」なのだが、評者の加藤氏にもつかみがたいようだ。加藤氏からdsfaplsのギターについて「テーブルトップギターにしている理由は何か?」という疑問が出されています。僕も最初に彼の演奏を聴いたときに、その質問をした。グーグル検索すると、ジョン・ケージのプリペアド・ピアノが発想の原点らしいですね。じつは加藤氏の出自でもあるクラシックに由来する奏法だったという訳。広めたのはキース・ロウだから、それはそうだろう。この辺は僕も疎いんで、奏者からレクチャーしてもらえれば、という加藤氏の提案は、もっともではある。「dsfapls=Dick Sucking Fool At Pussy Licking School」なんて名乗る彼のパンクな魂からしたら、そんなダサいことはしないだろうけどなー。ほぼカットされている最後のフィードバック奏法もなかなかいいですね。けっこうバリエーションが出せているっぽい。この演奏、客は「長えな!」と思うんだけど、楽しませるための演奏ではないからね。「君たちはもうちょっと苦しんだほうがいいんだよ」っていう辛口な音楽。頭痛に悩まされている加藤氏からすると苦行すぎたみたいです。「時間をどう意識するべきか」という加藤氏の投げかけはじつは深いものをはらんでいるのだが、今後の課題に残った。

三番手は私が提出した「西川素樹・永田利樹・ノブナガケン・松本ちはや」の5分程度のダイジェスト動画。残念ながら評者のお気にはいらなかったようですね。その評言を要約すると、「もっと音数・音量を絞ったほうがいい」「リズムが単調で騒がしい」「メロディアスな要素がない」という風な指摘で、クラシックや現代音楽のファンがジャズ/フリージャズに対して抱く典型的な不満です。平べったく言うと「もっと静謐な演奏をするべきだ」という意見。これは古くは戦前から現代まで続く価値観の対立(黒人と白人、ジャズ喫茶とクラシック喫茶、コルトレーンの後継者たちとECM、ノイズ系と音響派など)なので、個人的な好みや経験論の披瀝にとどまらず、歴史的な文脈を踏まえて述べたほうが客観性を持たせることができるでしょう。

評者の関心が「音の粗密」だけに偏っているなと感じる。しかしそのように、動画によってかえって評者のオブセッションがあぶり出されているのは、強度のある演奏だからではある。打楽器奏者が二人入っているのだから、リズムの面白さ・複層性を狙っていることは自明なので、そこの分析が欲しいところだが、言及がないですね。加藤氏の前回の同企画で論評したアンチヒロ氏の演奏も「リズムのなまり」みたいなことを狙ってると思うのだが、その点はスルーされてました。評者にはリズムに対する興味・知識が薄いのだろう。ジャズ一般について関心がないのだろうけど、逆に普通のジャズを聴きなれた人には「狂ったリズムでがちゃがちゃやってる」と感じてしまうのだろうね。なおカップルで来ていた観客には難解すぎたらしく、演奏途中で「長すぎる」とかぶつぶつ言って、休憩時間に帰ってしまいました。ワンセット40分とか我々「インプロ」マニアは普通に思っているが、常識的には破格の長さなのだ。

加藤氏がノブナガさんの腕の動きに注目しているのはさすがですね。でも彼女の提起したように音を出さないで待っていると、トリオでどんどん行ってしまうので、ノブナガさんが音を出し続けているのは正しい選択。彼は流れに巻き込まれないタイミングで音を出すことで、別の選択肢を明示して続けているのだ。マイクの位置が悪く動画ではノブナガさんのやってることが聴きづらいが、耳を澄ませれば聴こえるレベルではある。ちなみに私の文章ではこの演奏箇所を念頭に以下のように評している。
〈しかし松本だけだと演奏が遊戯性に傾いてしまうかもしれないところ、ノブナガケンが入っていることで演奏に「重し」が効いた。まさかドラマーが演奏を抑制する側に回るとは、ノブナガならではのいぶし銀の役まわり。音を出すことで逆に沈黙の大切さを意識させるとは、彼にしかできない芸当だ。〉
出典:jazz tokyo #1268 ( https://jazztokyo.org/reviews/live-report/post-90600/ )

加藤氏が述べているような、いわゆる「フリージャズ的な盛り上がり」に対する拒否感というのはけっこう多く、水道橋ftarriなどで行われている演奏のかなりの部分はそれへのアンチという面はあるだろう。そこの常連出演者の遠藤ふみ氏もTwitterかfacebookかで、フリージャズ的な演奏は自分のメンタリティとして受け入れられないと書いてましたね。僕が遠藤の演奏に興味を持ったきっかけはその投稿にある。

史実をさかのぼれば、ジョン・ケージも「他人の音に反応するな」と言ってたらしいし、フリージャズにはまったく否定的だったはずだ(出典は失念)。そのケージには「サイレンス」という著書があり、私は読んだことはないが、それを意識してか武満徹には『音、沈黙と測りあえるほどに』という著書もある。余談だが間章が(『トランソニック』誌あたりでの対立でもあったのかと邪推するが)その書名を「沈黙を測れる音があるなどとは傲慢な言葉だ」と感情的に批判してましたね。というわけで武満の本も私は読んでないです。

ジャズではECMレーベルが”The Most Beautiful Sound Next To Silence”(「沈黙の次に美しい音」)を標語に掲げて、1970年代後半以降のシーンを席巻したらしい。今そのECMの本(稲岡邦弥「新版・ECMの真実」カンパニー社)を読んでいるから非常に問題意識が接続するのだが、そのECM本の著者・稲岡氏が音楽サイト「jazz tokyo」の編集者であり、私が投稿したライブレビューに対する彼からの「もっと客観性を持たせるべき」というサジェスチョンを受けて、この加藤氏の企画に、そのレビューの参考としてリンクを張っておいたサンプル動画を(もちろん演奏者の許可を得て)エントリーしてみた。

ここでは加藤氏が合コンのたとえなどを出して、エネルギッシュで有機的に絡み合うようなプレイに対して、理論ではなく「メンタリティとして受け入れられない」ということが表明されたのが、一番の「肝」かな。今までつかみかねていた彼女の音楽的指向性が明確になってきたといえる。それを音響派への接近と言ってしまうと狭いし、わかりづらいので(音響派という言葉は誤解を生みやすいと思う)、仮に「サイレンス派」とでもしたらどうだろうか。音の匿名性を強調するべきだと述べる一方で、「メロディアスな要素を排除するべきではない」ということも主張されているので、ECMみたいなものも必ずしも否定しないということだろう。

注・音響派とは「匿名的で、微弱な音量で、沈黙や間を多用するなどとしばしば言われる」(細田成嗣) https://www.ele-king.net/columns/005754/ 

従来の自分の価値観からすると、音数を絞った現代音楽(実験音楽と言うべきか)や、ECMの耽美的なサウンドなど、無関心であったし、むしろ否定的だったけどね。平岡正明がシュペングラーの「西洋の没落」の書名を挙げて、ウルトラ反動的な内容ではあるがおおむねの要旨には賛同できるとして、「俺に言わせれば現代音楽などは衰微し滅亡しつつある西洋白人文明のあげる断末魔である」というようなことを書いていて(出典は失念)、大学生だった時の僕としても、漠然と今までそう考えていたことをうまく(つまり、ものすごく大雑把に)言い当てているなあ、と感じたものだ。現在はさすがにそこまで野蛮に切って捨てるのは誤りだと思うけど、私の出発点はそこです。

間章はもう少し現代音楽にコミットしていた分、その批判もややこしく込み入ったものだったが(今、詳述する用意がない)、ECMのキースやチックのピアノ・ソロなんかは当然ボロカスで、「キース・ジャレットの時代、悪い時代、反動の時代」だとしていた。セシル・テイラーが「サイレント・タン」の録音で、激しさよりもバラード的な面を多く披露したときに、ジャズ喫茶のファンからは「セシルが日和った」(フリージャズの厳しさから逃げた、の意味か)という酷評が出たと間の文献にあったはずだが、(その当時よりも二、三十年後くらいに聴いた)僕も日本公演の「ソロ」(1973年)とかに比べるとちょっとぬるいなあと思ったわけで。

今の自分はそこまで「ハードコアなフリージャズ」の原理主義的な信奉者ではないのだが、音響系などには一切関心を払ってこなかったし、音数を絞るという選択はいわば邪道、即興のアポリアに対する迂回路であり、「逃げ」だろうと考えてきた。しかし別のジャンルというか、可能性の一つとして、その領域はリスナーとして一度向き合ってみたいとは考えている。加藤綾子氏の動向はいずれそこへ関わってくるだろうという予感はあったが、早くも実際そうなりそうだと判明したが、どうなるだろうか。

ところでECMの耽美的なサウンドとは何なのか。これぞECMのクリスタルサウンド、というのは、このポール・ブレイの「オープン、トゥ・ラブ」だろうね。
注記:参考音源 Paul Bley 「Closer (1973)」、youtubeにて試聴。アルバム自体は20年以上の昔に一度聴いた、はず。

過剰に残響を拾った録音は空間を感じさせ、たしかに高度な技術だ。残念ながら私の騒がしい生活環境ではヘッドフォンで聴くしかないのだがね・・。そしてジャズ本来の生命的な躍動感がまったく感じられない、眉目秀麗だが沈鬱で、スタティックな演奏。かつてはハードなフリージャズをやっていたブレイが「ビル・エヴァンス的な耽美派ピアノに立ち戻った名盤」とされており、当時のソロピアノ・ブームの一翼を担ったとされている。他にはキース・ジャレット、チック・コリア、リッチー・バイラーク、スティーヴ・キューンらがいたが、その中で一番アブストラクトなのがブレイだろう。ちなみに今読んでいる「新版・ECMの真実」には、バイラークがECMのプロデューサー、マンフレート・アイヒャーと仲たがいした経緯が書かれており、ECMの音楽性を問う上で興味をそそられる。以下に引用する。

「マンフレートの好きなバラードやメロディアスな曲想の音楽は三枚で十分だと思ったんだ。四枚目は僕の血肉となった『ジャズ』をやりたかった」(R・バイラーク)

まあ、バイラークはさておき、加藤氏が「最近の批評でも高く評価されているらしい」と言及していた音数を絞った即興のうち、たとえばピアノであれば「幽けき刻」の動画での遠藤ふみなど、このブレイのソロを×0.5の速度で再生してみると、かなり似たような印象を受けるね。むろん、現代の奏者はここまでベタに抒情性を歌い上げることは避けているのだが、使っている音のパターンはわりとオーソドックスなので、全体的にはさほど変わらないんじゃないかなあ。そしてこのブレイのソロを速度×0.25で再生すると、音のゆがみや残響の異様な伸びにより、エレクトロニクスをも援用した、きわめて斬新な音楽のように聴こえるね。ブレイはこの当時からエレピでそっち方面の実験もやってたわけだけど・・。

しかし、やっぱりブレイのタッチは強靭だし、骨太でスケールが大きく感じる。音楽として強度が数段上ということ。抽象的な言い方で申し訳ないけど。それは、フリージャズの嵐を潜り抜ける中で自己の極限をとことん突き詰めたからこそ、至れることができた静寂の境地、と言ったら精神論に聞こえるかもしれないが、事実だろう。「最新のトレンド」と言われている微音で固めた即興演奏よりも、この50年前のブレイの演奏を×0.25で再生したほうが、その二・三歩先へ進んでいるように聴こえる、というのが現実であって、現役の奏者がその壁を破るという意識を持つためには、そういう方法論だけをもって高評価するような世評は間違いなく妨げとなる。

さて、その「新版・ECMの真実」を読んでいて新たに知ったのが、このキム・カシュカシャン Kim Kashkashian というヴァイオリン奏者だ。

注記:参照音源「Performance」Kim Kashkashian https://www.youtube.com/watch?v=Bmi4Y6a1fHQ

「えっ、そんな有名な演奏家も知らないの!?」と思われるかもしれないが、クラシック/現代音楽やヴァイオリンに興味がない私のような人間はそんなものである。この動画で演奏を初めて聴いたのだが、よくあるビデオカメラの録音でしかないのに、すさまじいテクニックは痛いほど伝わってくる。そして、これは曲なのか即興なのか知らないが、そのテクニックを抑制する音楽的見識も一発でわかるものだ。ようするに、ただ者ではないな、ということで、有無を言わさない迫力がある。自分はこういう水準のヴァイオリン演奏は喜多直毅しか聴いたことがなく、その価値を測りがたいが、少なくとも、これならソロ・リサイタルに金を払って見に行っても損をしたという気はしない。こういうものは非常に西洋的で、フリージャズで最も有名なヴァイオリン奏者のリロイ・ジェンキンスなどとは、まったく異なる評価軸を考えないとならないけど。私が思うに、このキム・カシュカシャンあたりが加藤氏の理想とする演奏に近いものかもしれないですね。

ま、活字メディアの権威が相対化され切った現在、演奏家ではない人間が音楽についてどこで何を言おうと、そんなものは誰にも真剣に受け取られることなどなく、無視されるだけだ。演奏家だけが批評の権利を与えられ、また責務を担わされている。加藤綾子氏はその責務の半分を果たした、今の日本で唯一の人間かもしれないですね。だが、「論より証拠」。ではその加藤綾子による即興演奏はどうなるか。今後に注目したい。

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