ダンス素人の見方④ 大人少年『わたしたちは還る土すらもたない』 【三橋俊平、羽冨綺心、塙 睦美(モモンガ・コンプレックス)、本間夏梨】

大人少年「わたしたちは還る土すらもたない」
2023年12月9日
*2023年12月7日(木)-10日(日)
会場「シアターバビロンの流れのほとりにて」(王子神谷)
【構成・演出・振付・出演】三橋俊平
【共同創作・出演】羽冨綺心、塙 睦美(モモンガ・コンプレックス)、本間夏梨

ダイナミックな旋回運動を基本にさまざまに錯綜する群舞のポリリズミックな面白さがあり、日常会話での軽みのあるやり取りを挿入する演劇的な場面があり、バックの舞台装置(花瓶、絵、死体に扮した人体、さいのかわらの石積み、木の台を積んだ城またはマンションあるいはベランダ、木の台を棺桶に見立てて運ぶ、木の台による墓標)を活かしたソロでの印象的で繊細な表現がある。

特に演劇的なパートでは多く三対一の図式が用いられる。どことなく家族のようにも見なせる三橋・羽冨・本間と、無言の狂言回しとでもいった独特の存在感である塙。あるいは羽冨・塙・本間という年齢の近い女たちと、上の世代の男である三橋。キャスティングを活かした妙味で、多少バタバタしたところのある出演者(羽冨か本間のどちらか)にはいかにも「女の子っぽい」(妹または娘の)役を振ってある。羽冨か本間の別のもう一人は、ダイナミックで鋭くもしなやかな回転と、意志的にコントロールされた表現主義的な動きで、また死体を運ぶというある意味で主役のような役割を担っている。塙は繊細な手指と足指で、優美で静かな、だが塵を寄せ付けないような凛とした空気をまとう。

群舞ではコンタクト・インプロヴィゼーションに似た回りながらの絡みや体重の預け合い、重心の遠心力やトリッキーな引き戻しや崩しなど、めまぐるしく予測しづらい動きながら、大きくみれば雨雲にも似たまとまりが感じられる。振り付けなのでコンタクトよりだいぶん硬い動きなのだが、計算され尽くしているだけに、歯車が食い違ってずれていきながら思わぬところで帳尻が合う、という面白さは十分に発揮されている。前半で提示されたシークエンスが最後にドラマチックな音楽で再演されるが、それまでの間に演じられたドラマ、すなわち小津安二郎の映画のようなとりとめのないおしゃべりだがどことなく静かけさのある会話とか、苦悶を隠し持ったテーマに対する自己の内的衝迫を空間に投げかけていくソロのダンス、群舞の合間に入れ込んである一対一での無言のマイム劇などにより、改めて見たときにその動きの細部に意味付けをできるようになっている。

私見によると、すれ違いや突き放しをも含めた広い意味での「かかわり合い=支え合い」によって人間は生きている、ということで、特に三橋のソロでの回りながら自己の身体を床に叩きつけるような動きは根底にある本作のモチーフを明かしており、ラストでは他の三者がそれをやんわりと受け止め、受け止めたフィーリングを受けながし、異なる動きへと転回し他者へと投げかける連鎖に転化していく。悼む、傷む、というエモーションと、ダンスの社会的な意味。非人称化されたシステムとしての社会ではなく、一人二人三人…と連なっていくという意味での社会。死と対峙するために必要な生き方としての人々の連なりとしての社会、を演じるダンス。

それらがあった上でのの三橋が夕暮れを眺めながら一人宵闇に飲まれていく、という幕切れの余韻は心に染みるものがあり、会場を出た王子神谷の街並みは、平凡というかややさびれたよそよそしい町という来るときの印象とは違って、不思議にやわらかな輝きに満ちて見えた。

なお序盤におかれた人形のエピソードだが、死体を踊らせなくてはならないのは、過去の記憶を踊らせなくてはならないということでもあり、しかし振り付けは演者を演出の道具、すなわち人形にしてしまいがちでもある。そうならないためには演者からも内的モチーフを出しあってもらう必要があるが、そのすりあわせのプロセスを一部ドキュメントとして作品に入れ込んだ風でもある。

本作は複雑かつ精密に作り込まれた演出だが、創作の過程ではダンスがテーマの奴隷にならぬように余白を多く持たせてあり、演者の個性や自発的な解釈を活かして、他者の観点を呼び込んでいるのではないかと感じた。ていねいな共同作業で運んでいく納棺やリフトした人体のように。だからこその印象深さではないかと思う。

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