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あにの 落語の話

 あには落語が好きです。

 小学生のときのある日、風邪をひいて一人で寝ているあに少年に、母が仕事帰りに「まんが古典落語三十六話」という本を買ってきてくれました。
 これがまあ面白くて面白くて、その日のうちに読み終えてしまい、翌日には同じ作者の「まんが古典落語三十話」も買ってきてもらい、こちらもその日のうちに読み終えてしまいました。

 今調べてみると作者の前谷惟光はこち亀でもおなじみ「ロボット三等兵」の作者でもあるようで、そりゃあ面白かったわけです。

 そんな落語の魅力にすっかり取り憑かれてしまった兄少年ですが、当時住んでいたのは新宿まで電車でも車でも1時間という微妙に田舎な東京都下であったため、近くに寄席もなく、落語を摂取することができるのは笑点の演芸コーナーくらいのものでした。

 そんな折に近所の市民ホールの催し物のチラシに落語の文字を発見した兄少年。ホール落語という文化との出会いでした。
 テレビでしか見れなかった落語を生で見ることができるということで、母に懇願し、その後時には母と一緒に、時には一人で、時にはおとおとと二人で、何度も通わせてもらうことになります。

 その後小6のときに引っ越してからしばらく落語からは遠ざかってしまうのですが、おとなになりyoutubeで柳家喬太郎のコロッケそばに出会いまた数年に一度程度ですが寄席に行ったりホール落語に行ったりするようになるというのがあにの落語プロフィールです。


 ここで今まで見てきた落語家で印象に残っている人をいくつか紹介したいと思います。これを読んでいるみなさんも「この人スキ!」っていうのがあれば是非コメントやスキボタンでおしえてください。

林家こん平
 ご存知笑点のオレンジだった人。市民ホールの落語会は演目を事前に発表していたのですが、この人のところだけ「笑点」となっていてなんやねんと思ったら、1時間みっちりフリートークをしてくれました。チャーザー村が千谷沢村という実在の村落であったことを知ったのもその時でした。テレビに出ている人を生で見たのは、この人か見栄晴が最初。

江戸家猫八
 3代目。市民ホール落語会で自身の戦争体験を笑いと声帯模写を交えてたっぷり話してくれました。国語の教科書に載っていたような眉唾ものの戦争モノ話と違って、自身の体験を巧みな話芸で語ってくれたので、今でも話の内容をよく覚えています。

橘家圓太郎
 高校1年生のときに合唱祭をやった市民ホールに真打ち披露興行のポスターが貼ってあり、同級生の松井くんが「この人うちの親父の元部下なんだって」というので、なんとかチケットを頂けないとお願いしたら(今思うと図々しくて恥ずかしい)「今度はお金を払って見に来てね」というメッセージ付きで招待していただいたのがご縁。その時の初天神は今でも覚えています。あとお客さん全員に助六寿司がついてきたのに驚きました。
 20年後に渋谷落語<シブラク>で再会。他の若手の追随を許さない圧倒的な演技力に感動するとともに、高校時代の約束が少し果たせたのが嬉しかったです。お手紙とご祝儀を送るべきだったなーと今でも悔やまれるので、コロナが開けたら絶対に独演会に行きます。

瀧川鯉斗
 そのシブラクで初めて見ました。最近バラエティやドラマでよく見かけたり本出したりと活躍してますね。当時は二つ目で本当にヘタクソだったし、元暴走族を全面に押し出していたので元いじめられっ子の兄としてはあまり良い印象ではなかったのですが、それでもなんか覚えているのは天性のスター性なのかなんなのか。

柳家喬太郎
 ご存知キョンキョン。コロッケそばの人。この人のおかげで落語ブームが再燃しました。新作も多くやったり、枕が長かったり、話の途中で急にメタ挟んできたり、着物と手ぬぐいがウルトラマンだったり、柳家にしてはかなり奔放なのですが、古典やるときは意外と基本に忠実。地元で親子会やってくれたのにチケットが瞬殺で悲しい思いをしました。コロナが開けたらまた見に行きたいです。

おとおと
 小学生の時「学校のお楽しみ会で寄席をやることになったから落語教えて!」といってあにに入門。その時教えた酒粕は同級生の中で群を抜いてきちんと落語として仕上がっていました。今も喋りの仕事をしているので、弟子として師匠をもっと崇めるといいと思います。

あに
 古本市で速記本を山ほど買ってきて、ここのところ毎夜寝る前の読み聞かせがわりにお父さん落語会を開演。爆笑に次ぐ爆笑で子供が寝なくて困っています。たちぎれを演ったときは小1の次男が「なんでこんな悲しい話を読むの......つらい......」といって泣き出してしまいました。今注目の若手!

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