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大きな玉ねぎの下で(6)

「12時過ぎるかも」
「了解、じゃ、10時ころから神保町に出没しま~す(w)」
「え、2時間も早いよ」

 亜紀は学生の頃とまったく変わっていない。人の話を聞いているのかわからない。そこがまた楽しかった。

「じゃ、神保町でうろうろしていて、俺は時間できたら連絡するから」
「りょ」

「りょ」という亜紀のメッセージ、「りょ」ってなんだ?

 亜紀に会ったらどんな話をしたらよいのか、どんな顔をして話せばよいのか、亜紀は結婚をしているみたいだが会ってもいいのだろうか、いろいろ迷っていたが、亜紀からのメッセージの勢いで、戸惑う間もなく会うこととなった。頭の中ではいろいろと考えてはいたが、心の中では会えることが嬉しかった。

 人間は思考と行動が一致しないことがあるのだろうかと自分に問いかけていた。


 僕は、結局、スマホで最初に調べたコースで神保町駅へ向かった。神保町駅は都営三田線、半蔵門線などがあり、改札口を出てから、地上に出なくても地下道を歩き、目的の出口を探せばいいのだ。

 この地下道もよく亜紀と歩いたことを思い出す。「じゃんけん」をして、好きな出口を選び、お互いに選んだ出口から地上に出る。地上のどの辺りで出会えるかということを楽しんでいた。こんな単純なことなのに楽しかった。時々、地上に出ても会えなくなったことが数回あった。携帯電話で泣きそうな声で「今、どこ?」と亜紀が電話をしてきたことを思い出した。全ては思い出の缶詰に詰め込んだはずだったのだが……。そんな遊びをしていた神保町で、今日、亜紀と会うのだと考えると、不思議な気がした。

 神保町駅の地下道でも遠くにある出口へ向かった。A8出口だ。その場に行くと、出口ではなく出版社の入り口のようなゲートがあり、出版社名が大きく書かれてあった。学生時代にも歩いた場所だが、地下道の出口が出版社の入り口のようになっていただろうか。亜紀とここを歩いた記憶はあるが、どうしてもこの光景は思い出せない。

 出版社名を見て、一気に緊張感が全身を突き抜けた。一瞬止まって、またバッグの中の封筒を確認した。「この中に入っている小説原稿を採用してもらえるだろうか」。緊張から不安に変わってきた。

 約束の時間より少し早い。ここでもう一度小説原稿を読もうかと思った。A4版縦書きで130ページ以上ある。本になれば200ページは越えると思っている。いや、ページ数ではない。でも、短ければ小説にならないだろうと答えの出ないことを自問自答していた。

 今日は3社を回る。そのために数ヶ月かけて3本の小説を書いてきた。神保町は出版社が並んでいるので、同じ日に移動時間も少なく、出版社を回れる。そう考えるのは僕だけではないだろう。多くの作家志願の人たちは、出版社を回っているのだろう。アポを取ってはいるが、はたして名も知られていない僕の原稿を見てもらえるだろうか。いや受け取ってもらえるかさえ心配だった。

 スマホがブルブルと振動した。LINEのメッセージが届いた合図だ。亜紀からだった。

「もう、神保町にいまーす」

 緊張のあまり、メッセージは読んだものの、返信はせずにいた。さっきまで、亜紀のことが心の多くをしめていたのに、今は出版社へ向かう緊張と不安が心のエリアの大半をしめていた。初めて小説を書き、出版社に持っていく無名の僕は、返信するだけの心の余裕はなかった。

「既読スルー?私は今、大きな手の前にいまーす」

 大きな手ってどこだろう。うっすらと記憶の中に現れてきたが、それ以上思い出すことができなかった。

「うん」

とだけ返信をした。

 A8出口から地上に上がった。空が見えた。腕につけた電波時計を見たが、まだ時間は早い。約束の時間より早く伺い「早めに来ました」というメッセージを伝えた方が熱意は伝わるだろうか、いや、出版社の方はきっと分刻みで動かれているはずだ。もう少し時間をおいたほうがいいだろうか、印象はどちらがいいだろうか。いやいや小説原稿の内容が大切だなど、頭の中でいろいろ考えた。

 出版社の建物の入り口の横に喫茶店があった。今朝、東京駅で喫茶店に入ったのだが、この喫茶店に入り、約束の時間まで待つことにした。

「何にいたしますか?」
「コーヒーを」

 また、コーヒーを頼んでしまった。メニューを見ていろいろ迷いながら選ぶことは都会人でない気がしたのだ。「コーヒーを」と即答するのが、喫茶店慣れをしているように見られると思った。
 都会に来たら都会人らしくと思っていたことは間違いなかった。でもそのことを意識していることは、都会人になりきれていないことなのだろう。学生の頃は、全く気にしていなかった行動だが、こう思わせるのは、都会慣れした社会人としての自分を作りたかったのかもしれない。

 秋田の実家の本屋でお客さんが来るのを待ちながら、いつも見ていたテレビドラマの中で、行きつけの喫茶店やレストランで「いつもの」と注文する場面があった。その光景を僕は格好いいと思っていた。
 ドラマに出てくる人は迷わずに即注文をする。メニューを見て迷っている場面が出るのは必ずカップルだった。仲良く、話しながらメニューを一緒に見て決める。店員がイライラするほど時間をかける。決めている時間も二人には楽しい時間としてテレビドラマには映し出される。

 実家のお店の中でテレビドラマを見ていると、ドラマの内容だけでなく、俳優の仕草も気になっていた。しかも、言葉を話していない人を観察し、背景をじっくり見ていると、思わぬ発見があり、楽しかった。話していない俳優の目線はどこにあるのか、ドラマの中に出てくる喫茶店でコーヒーを出す店員の仕草や顔の表情まで気になった。
 この店員さんは、機嫌よくコーヒーをお客さんに出しているのか、ただ、さりげなく出しているのか。もしかしたら機嫌悪く見えるのは、昨夜プライベートで嫌なことがあって、その翌日に撮影があったのだろうかなど、見えない部分まで見たくなって、いろいろ想像しながら楽しんでいた。

 店員がテーブルの上にコーヒーカップを置く置き方を自然と見てしまう。この喫茶店の店員も今朝の喫茶店の店員と同じように、一度コーヒーカップをテーブルに置き、少し向きを変えたのだ。なぜかホッとした。置き方が丁寧だけではなかった。口角を上げ、微笑んでいるような優しい笑顔で「お待たせいたしました。ごゆっくり」と。

 10年以上前のバイトで、人の仕草はマニュアルだけでは身につかないことを僕は店長に教えられてきた。「同じマニュアルでも、その人の思いが違うとお客様への伝わり方が違う」「店員が嬉しいことを考えて接客すると、お客様も嬉しくなるものだ」など、ずっと忘れていた店長の言葉が思い出された。

 今、僕の前にコーヒーを差し出してくれた店員は、きっと嬉しいことがあったのかと思えるほど、僕も嬉しい気持ちになった。

 電波腕時計を外し、コーヒーカップの横に置いた。アポを取った時間に遅れないように、ここで少し心を落ち着かせて出版社へ行くことにした。この出版社へ持って来た小説原稿が入っている封筒をバッグから取り出したが、原稿は出さずに、封筒の表に書いた出版社名だけを確認して、バッグに戻した。
(出版社に原稿を出そうとしている卓也、そこに亜紀からのLINE、ここは亜紀との思い出の場でもあった。 次回へ続く)


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