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「まだ読んでいない本」について

買ったけれどまだ読み切れていない本。
ちまたでは、この本を少し洒落た言い方で「積ん読(つんどく)」とも言うそう。

なんだか心当たりがあるぞ...と私はおそるおそる部屋の本棚に目をやる。身長の低い私には正反対のやたらに大きい本棚だ。本棚では、"いつか"読もうと古本屋のセールで買った文庫本たちが「所狭し!」と言いながら、ひしめき合い、本棚の化石となっていた。

今、社会は自粛ムードで、私は家にいる時間が増えた。しかし、まだ"いつか"はやってこない。言い訳のように聞こえるかもしれないが、なんだか読みたいとは思わないのだ。別にその本に興味がなくなったわけではないのに、不思議。

どうして、読まないのだろう。時間はたっぷりあるというのに。

古本屋のレンガ塀のみたいな本棚から発掘してきた選りすぐりの本たちは、気がつくとやらねばならぬタスクの山となり、時折私をちくりと刺した。

打って変わって、最近の私の話。

最近の私はnoteを書いたり、写真を撮ったり、映像を撮ったり、撮ったものを編集したり...といろんな初めてのことに挑戦していて、割と忙しくしている。忙しいと言っても辛くはない、むしろ楽しい。何かをするということは自分の可能性が広がっているように感じ、とても新鮮な経験だった。もしかするとこれが充実しているってことかもしれない。

再び打って変わって、小説を読むことについての話。

私が小説を読むとき、それは日常を忘れ、非日常を体験したいと思うとき。そういうときに私は日常の気分転換として読書をしようと思う。周りはどうかはわからないが、同じような感覚の人は多いんじゃないだろうか。

さあ、どうして本を読みたいと思わないのかについて話を戻そう。
先ほどの二つから考えてみると、私が本を読みたいと感じないのは、非日常という気分転換を欲しないほど、今の日常に没頭することができているからではないだろうか。

きっとそうだ。最近、楽しいもの。だからそういうことにしておこう。

「積ん読」は、今の自分に何かが入り込むスキマがないほど充実している証拠、今の日常生活が精神的にゆたかである証拠。だから、読まない本が溜まっていることをこれまでお金のムダだと嘆いていたが、結構イイコトなのかもしれない。

今没頭していることに慣れてきて、それらを嗜むくらいになれたとき、きっと私は再び本を読みたいと思うのだろう。各小説たちへの期待はその来たるときまで、大切に心の中にしまっておこうと思いながら、私は本棚に再び目をやった。

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