見出し画像

夢十夜『ある男の背中』

二畳ほどの見慣れた脱衣室。
私は洗面台の鏡に背を向け、しきりに映し出された背中の様子を見ている。

背には黒い楕円形があった。楕円は握り拳ほどの大きさをしており、その色は深く、土砂降りの雨に打たれた古い礼服を彷彿させた。

「なんなのだこれは」

私は訝しげにそれを見つめた。吸い込まれるような楕円だった。しばし見つめたのち、手を伸ばし、触れようとした。しかし、楕円は肩甲骨のちょうど真ん中に座しており、四十肩持ちのこの身体ではどうにもこうにも、届きそうになかった。どうしたものか、と私は軽く首を傾げた。そうしてまた、取り憑かれたように楕円を見つめた。

「早く支度してくださいよぅ」

 妻の間延びした声が響いた。

「今日は大事な会議があるんでしょう」と続けて言った。

「わかってるよ」と私は壁に向かって答えた。

それでも、楕円は微動だにせず、行儀よく背中に収まったままだった。私は軽い溜息を一つ吐き、ゆっくりとした動作でワイシャツを羽織って、脱衣室を後にした。

ことりことりと揺れる電車の中、窓枠の奥では電柱が景色をすぱんと切っていた。私はというと、不定期にふらめきながら、見慣れた吊り広告をぼうっと眺めていた。しかし、文字などは一つも読みやしなかった。

あぁ、こんなにも気になるのだったら、妻に頼んで見てもらったらよかった。いや然し、妻は心配症だからなぁ、体調に異常は無いと、どれほど訴えようとも、彼女は病院に引きずり込もうとするだろう。そうして、素直に従わなければ、私のことはどうでも良いんですね、と泣き出すんだ。そうなったら、厄介だ。女というものはどうにも変なところで愛を確かめようとするからなぁ。

電車の中で、私はこのようなことばかり考えていた。

あぁ、もどかしい。非常にもどかしい。今ここで、すぐにでも服を取り払って、誰かに背の楕円がどのようになっているのか確認してもらいたい、とも考えていた。

私はやきもきしていた。私はとにかく、ひどく腹を立てていた。

仕事を終え、家に戻り、晩飯を食べても、真黒い楕円は私の頭から離れてはくれなかった。

私は脱衣室に向かい、再び洗面台に背を向け、鏡越しに楕円形を見つめた。

目を凝らせば凝らすほど、私の心はその真っ黒な色面にとりつかれていった。これは平面なのか、盛り上がっているのか、あるいは窪んでいるのか。それすらもわからなかった。楕円はすべての光を吸収し、すました顔でそこにあるだけであった。

好奇心は膨れ上がり、留まることはなかった。この思いを抑えることは到底できそうになかった。

私は背に回した腕にありったけの力を込めて、楕円に手を伸ばす。

背には汗がじっとりと滲んだ。

あと少し、あと少し。

「あっ——」

触れた、そう思ったのも束の間、刺繍針のような時が経ち、気がつくと私の身体はむうむう膨れ上がり、ばららと散らばった。

キーンと掛け時計の音がなる。
脱衣所は静まりかえり、そこに私はいなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?