「タスクシュートだけ使う」という方法論
久しぶりにタスクシュートの話をします。
私はいまではMac標準の「メモ」とGoogleカレンダーの他は
タスクシュートだけ
使っています。
これはとても不思議に思われることもあるようです。またこれを言うと
「タスクシュートだけが正しいのか?」
と問い詰められます。
しかし私は「意見」とはそういうものだと思っています。「私がいつでも正しいわけではない」というのと「しかし私は正しいと信じる意見を述べる」のとは両立するはずです。
なぜタスクシュートしか使わないのかといわれれば
「2つ以上に分ける意味がないから」
と言います。
たとえばあまりにタスクシュートのリストが長くては「見通しが悪くなる」という考え方もあるでしょう。それはその通りです。
しかし私のリストはそんなに長くはなりません。そんなにたくさんやることがないし、そもそもそんなにたくさんやりたくもないのです。
私はタスクシュートに「必ずやる作業だけ」を置きます。「やったほうがいいタスク」という概念はすでに私にはありません。「なんであれ、やったほうがいいかどうかは誰にもわからない」ように思います。
私がタスクを実行するのは「義務を果たす」のが目的です。義務には二種類あります。
人が私に課す義務。
身体が私に課す義務。
前者には「仕事」があります。後者には「食事」があります。
これだけであれば「タスクリストが二種類」も必要なはずがないのです。
もちろんグッドモーニングボイス(GMV)のような「義務」とはいえない活動もあります。でもそれは「義務」ではないのです。つまりやってもやらなくてもいいのです。
もちろん「現実に実行した」ならログとして記録は残します。それもまたタスクシュートに収めるのみです。