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ミッドサマーはアセクシャルに不向きなのか?

**※この記事には「ミッドサマー」のネタバレが含まれます。**


現在日本公開中の映画「ミッドサマー」。スウェーデンの伝統的な祭事をモデルとして作られた、架空の奇祭に参加することとなった男女の行く末を描いている。

監督のアリ・アスター氏は、初の長編作品でもある前作「ヘレディタリー」では家族関係に潜む不協和音を見事不快に描き出し、優秀な役者陣の演技も相まって近年最高のホラー映画として注目された。

そんな監督が「(この映画を見て)不安になってほしい」と笑顔で言い放ち発表された「ミッドサマー」は、日本公開前から怖いもの好きの映画人たちから注目されていた。
そして先週、ついに日本公開を果たしたこの映画は、あらゆる層の心をかき乱した。
SNS上では考察と感想が今も多く飛び交っている。
ホラーを期待して見にいった人が、期待外れだったと呟き、男女の映画だと信じて見た人が、気まずい気持ちで映画を後にする。癒された、何度でも見たいと称賛する人がいる一方、2度と見たくないと吐き捨てる人もいる。
そんなSNSの感想を眺めるうち、私は一つの気になる発言を見つけた。

「ミッドサマーはアセクシャルに向かない。存在がないものとされている」

私は最近アセクシャルを自認したが、ミッドサマーを鑑賞したのはそれ以降であった。
映画鑑賞中も観賞後も、そういった意味で不快だと感じる表現は、個人的にはなかった。
発端となったツイートを追うと、そのアセクシャルの方の不快ポイントは、主に後半の異様な性描写と、恐らくはそこに至るまでの過程や村の慣習も含んだ全てに対する嫌悪から来ているようだった。

 ミッドサマーの異様な儀式

舞台となるスェーデンのホルガ村は若干閉鎖的で、前時代的なコミュニティを有しており、世代を繋ぐために子供を望めば、必然的に近親相姦が増える。
そのリスク回避の為に、村はたびたび外の人間を歓迎し、新しい種を求めてきた。
映画ではその種を提供する役割に、外部からやってきた主役ダニの彼氏、クリスチャンが選ばれ、彼を見初めたホルガ村の娘のアピールを筆頭に、村ぐるみで2人がセックスをするよう誘導していく。
いろいろあって特殊な古屋まで誘導されたクリスチャンは、老若多数の全裸の女性に囲まれ、見守られながら、その中央に横たわる村娘(処女)と交わってしまう。
その描写は、アダルトビデオさながらに濃厚で長い。
村娘が喘げば、周囲の女性も一斉に喘ぎ出す。腰を振るクリスチャンの尻を、動きに合わせて1人の女が押して手伝う。村娘は注がれた子種を余さず奥へ受け入れる為に、終わった後も横たわったまま体を揺する。
無駄にセックスシーンが挿入されることの多い洋画界でも、ここまで露骨なのは珍しい。

一歩間違えばコメディにもなるこの生殖シーンは勿論ミッドサマー随一の話題ポイントでもあった。
だがこれがあるからアセクシャルに向かないと言うのはどう言うことなのか?

日本で言うところのアセクシャルの広義は

1. 誰に対しても性欲を抱かない。性交渉をしたいと思わない。
2. 恋愛感情を抱かない。

とされている。
しかし例えば、「なぜ性交渉をしたくないのか」「恋愛感情を抱かないのか」と言う理由に深く切り込むと、そこには個人差が存在する。
単純に、本当にそういったことに興味がない人もいれば、明らかな嫌悪感でそれらを避けている人もいる。
くだんのアセクシャルの方は、性嫌悪系のアセクシャルであり、映像そのものが耐えがたい一方、生殖行為が共同体の中で必須かつ称賛されている描写に、何か感じることがあったのかもしれない。

だがアセクシャルの存在が無視されているとは、少なくとも映画内からは読み取れないと私は思う。

ホルガ村とその宗教が、セックスカルトであれば、なるほどアセクシャルはお呼びでないと感じられるかもしれない。だが実際作中の性描写は、グロテスクで濃厚、インパクトが強いのでそれがメインの如く記憶に残りがちだが、目的はあくまで子孫繁栄だ。ミッドサマーの祭事中に必要なのは最も原始的な「子供を作る為の生殖」だけなので、そもそもそこにセクシャリティの概念は存在しようがない。

では「恋愛感情」はあったのか?村娘は確かにクリスチャンを相手に選び、ラブチャームと呼ばれる恋の呪いをかけていたが、あれは一般的な恋愛感情によるものとは言い難いのではないだろうか。
現に、娘とクリスチャンがその後を共に添い遂げることはなかった。クリスチャンは種を娘に提供した後は、生贄としてあっさり殺されてしまう。

映画ミッドサマーの、と言うより、個を排するホルガ村のシステム上、集団に同調できない、意に反する者たちはさっさと殺され排除されていく。その傾向からすると、セクシャルマイノリティはそもそも主張できないのではないか。マイノリティに理解のない古代からの宗教であれば、なおのことそういった「考え」を視野に入れたシステムは存在しない。すでに排除され、見えない人々が描かれていない表現に傷つくか否かは、アセクシャルに限らないと思う。
それから、過度なセックス描写に嫌悪を催した人は、マイノリティマジョリティ関係なく多数いただろう。
なので私は、「ミッドサマーがアセクシャルに不向き」「特定のマイノリティの存在を殺している」作品だとは思っていない。

だが、アセクシャル自認が最近の私にとって、この見方と感想は非常に興味深かった。
私は映画を面白い面白くない、合う合わないでしか見てこなかったからだ。
そこで今回初めて、自分がアセクシャルであるという前提で、不快までは行かないが、アセクシャル視点での理解し難いポイントが、ミッドサマー内に一つだけあることに気づいた。

ダニとクリスチャンの関係

実は、最初にミッドサマーがアセクシャルに向かないと聞いて、私は序盤のダニとクリスチャンの関係のことを言っているのだと思った。
物語の主人公ダニは最初から情緒が不安定だ。そのギリギリの精神を保つ為に彼氏のクリスチャンに依存している。
日々余裕のないダニはクリスチャンの都合も考えずに何度も電話をしたり、盛り上がらない会話をなんとか繋ぎ止めようとする。彼に不満をぶつけるも、いざ離れそうになると追いすがって引き止める。
アセクシャルな上にASD+不安障害の気質がある私には、まずこの2人の関係とやり取りが理解できない。
実際にこのような依存系カップルが存在するのは知っている。だが自分に落とし込んでもリアリティがなく、まるでファンタジーを見ている感覚だ。
クリスチャンに疎まれている、捨てられる不安感をダニはすでに抱いている。私はその対人関係の苦しさを抱えるよりも、1人でいる方が気楽だと考えてしまう。
ダニはクリスチャンを愛をしているのか?結局はただの依存なのか?依存と愛は何が違うのか?クリスチャンが他の女と寝ているのを見て、ダニは号泣するが、あれは愛ゆえなのか?突き詰めて自問すると、私には一つも答えられない。
お互い愛情も薄れている男女カップルが、完全に崩壊するまでがミッドサマーでは描かれているが、そもそも愛情でつながる経験のない私のようなアセクシャルには、この2人が「恋人」という肩書きで一緒にいて、なんだかんだで遠出旅行までするところから意味がわからない。

アセクシャルに向かないと言われたりしながらも、ミッドサマーはここにいる1人のアセクシャルに妙なところで気づきを与えてくれた。「恋愛映画」に一切の興味を示さない自分に、ようやく答えが出た気がする。

今後はアセクシャル、ASD視点から映画を分析してみるのも、いい自己分析になりそうなのでいいかもしれない。

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