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古民家全壊しました…【令和6年能登半島地震】

元郵便局の古民家を改装する話を楽しみに待っていらした皆様へ。
大変残念な話ですが、元旦の能登半島地震で全壊しました。


地震発生時

地震発生時、私はベッドとデスクがある部屋にいました。 1度目の震度5クラスの地震の時はすごく揺れたなぁと感じましたが、震源はどこだろうかとパソコンで確かめようとデスクに座った瞬間に2度目の大地震が来ました。
最初はまた震度5くらいかと思い、とりあえずは足を踏ん張る程度でしたが、5秒もすると、今まで経験したことがない横揺れがやってきました。感覚としては毎秒2メートルずつ左右に揺られる揺れが30秒以上続く感じです。

もちろん立っていることができなくなったので、机の下に身を隠したのですが、そこからすべての建具と窓ガラスが次々と外れて行き、部屋の中のものが全部飛んで行き、そして次に壁がめくれて次々に崩れてきて、 心の中でこの古民家終わったなと思って、次は柱が倒れたら命はないなぁと覚悟したら、揺れが次第におさまりました。

地震発生直後の部屋の様子

部屋の外へ 出た瞬間にいろんなことを悟り、玄関で長靴を履いて履いたまま中に戻って被害状況の確認をしました。結局この時履いた長靴はそのまま三日間履きっぱなしになりました。
家は北側に5度ほど傾いたままかろうじて立っている状態で、恐る恐る2階に上がったのですが、すべての床が斜めになっていて、天井の隙間から空が見えました。

空気穴から空の光が見えるのがわかりますか?つまり屋根がなくなった状態です。

家の中を見回るとものが散乱したり、窓ガラスが割れているのはもちろんですが、天井が落ちている場所があったり、階段も傾いていて、ほぼ全損だと言う事はその時にわかりました。

リビングにするため改装していた場所は天井が落ちて上の梁も折れてました

周囲の状況について

家が崩れたのは古いからだろうと思っていたのですが、外に出てみたら周り中の家がかなり崩れていました。というかうちはましな方でした。

家の前から撮った写真

木造の古い家屋だけではなく、鉄筋コンクリートの 隣の医院も大きな被害でした。

鉄筋の柱が折れてしまったお隣さんの医院

とりあえず心を落ち着かせながら半径100メートル位を歩いたのですが、半分位の家が倒壊しています。そして道路もすべての方向が電柱が折れたり、木が倒れたり山が崩れたりして完全に孤立してる状態だと言うことを知りました。

輪島方面へ抜けるバイパス、こういうのがあちこちに
生活道路もこの通りで、タイヤがハマる車などがその後続出

インフラが全部ダウンで避難所設営

当然、電柱などもそこら中で倒れているので停電しています。水を確保しようと思って地震から5分以内で浴室の蛇口をひねったのですが、既に断水になっていました。どうやら地区の水道の貯水タンク自体が倒壊したようです。
ネットには携帯からも全くつながらない状態になってしまい、奇跡的にソフトバンクの通話機能だけが生きていたので、実家と千葉の妻に無事を連絡することができました。しかし、会社やSNSでの無事の報告はほぼ24時間後になりました。
日没までは1時間もない状況でしたので、とりあえず近所同士で声を掛け合い近くの公民館にみんなで避難しました。 元旦ですので、公民館も休みで人はいません。そのうち近所の公民館職員の方が鍵を持ってきて開けることができました。そして発電機を持ってらっしゃる方がいて、公民館の電線を切って発電機をつなぎとりあえずの照明を確保しました。
後は公民館にある石油ストーブと各家から持ち寄ったストーブに灯油を入れて公民館の中を掃除して、避難所隣の保育所等から毛布をかき集めました。

元旦夜の公民館、周囲で唯一の光でした

倒壊家屋の下に人がいないかをみんなで確認しましたが、どうやらうちの集落に関しては全員無事でよかったです。
そのうち輪島方面の空が真っ赤になって、ラジオのニュースで朝市通りの火事を知りました。当初50軒が燃えていると言う報道でしたが、10キロ先があの明るさだとどう考えてももっと被害が大きいだろうとみんなで話し合っていたら、やっぱりその後200軒になっていました。
きっと戦時中に空襲を受けて、燃え上がる空はこんな感じだったろうと思います。
その日は準備とショックで、さすがにほとんどの方が寝ることができず、私も一睡も出来ませんでした。

とりあえず生命維持

正月で帰省してきている方が多かったので、避難所の物資だけでは全く足りないことがすぐにわかりました。
道路がこんな状況では、救援物資などは望むだけ無駄なので、しばらく集落内で何とかすると言うことで比較的体の動く人たちが中心になって、集落内から米を集めてプロパンガスを用意して、公民館の調理室からコンロとガス釜を持ち出してお米を炊いて、おにぎりにして配って、それで丸一日過ごしました。
中には、集落内には想定していない赤ん坊もいて、粉ミルクがなく、徒歩で10キロほど離れた 能登空港の避難所に取りに行ったり来てもらったり、後は5キロほど離れた老人ホームからこれも徒歩で安否確認の職員が訪ねてきたりしてお互いの状況を知る感じでした。
2日目になると、基地局のバッテリーも切れたようで、通信手段はほぼなくなりました。
ただし、道路は軽トラが通れる程度の最低限の啓開作業をみんなで人力でやったおかげて、半径5キロ位は車でゆっくり移動できるようになりました。その時点で能登空港まで行ってSNSなどで無事を知らせられました。

その後の状況

3日目あたりから、金沢方面から自衛隊や救急車両が何百台と言う単位で来るようになりましたが、まだ通れる道路は10分の1もなくて安否確認すらできていない集落がたくさんあります。現在はまだ水と食料の 確保を優先しているような状況で、しかしトイレが使えないため、ダンボールにビニール袋を入れた仮設トイレしかなく、高齢者を中心に水を飲んだりものを食べようとする方が非常に少なく今後は心配です。 かく言う私もできれば使いたくないので、食べる量を最低限にしてカロリーメイトでつなぎました。

うちの集落が特別ひどかったわけではなく、奥能登全体が似たり寄ったりの状況です。 道は通れないし、ほぼ全域で停電して、ほぼ断水、各役場の中心地、数百メートル以外は電気も通信もないと言う状態です。
さらに、奥能登と金沢を結ぶ道路がまだ片側交互通行のもの1本だけであるため、出るに出られない人と救援にも来られない人がたくさんいる状況です。

支援したいと言う声はたくさんいただいていますが、しばらくの間は自力で山の中で1人キャンプをして平気な人以外は来ることができません。
私もさすがにここでは何もできないので、おもだったIT機器やカメラレンズ類など大切なものだけをハイエースに積んで6時間かけて金沢の実家にたどり着きました。

今後は所属しているサイボウズの災害支援チームとして、及び理事をしている公益財団法人ほくりくみらい基金のメンバーとして、現地支援をしたいと思っています。

言いたい事はたくさんあるのですが、他にやることも山のようにあるので、今回はとりあえず古民家リノベ終了のお知らせとさせていただきます。
もし何かしたいと言う方がいらっしゃいましたら、こちらのほうに寄付やボランティア登録をお願いします。

今回の震災で死傷された方、大切な財産を亡くされた方に心から哀悼の意を表しますとともに、現地で頑張ってる方々の健康を心配しています。

まだ現状ではできる事は少ないのですが、ぜひ復興を応援して下さるようお願いします。 私も体制を整えた後、復興スタッフとして現地へ戻りたいと思います。

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今は寄付ページへの寄付をお願いしていますが、こちらも気に留めていただきありがとうございます。 この先どうなるかわかりませんが、サポートいただけましたら、被災地支援活動がおちついたら自分自身の生活再建に使わせていただきます。