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おしゃれ、とは何か?

たまにファッションを極め過ぎたその筋の人に、あるひとつの現象が起きるのを目にすることがある。それというのが、いつも同じような服しか着ていないということだ。「Tシャツはこれしか持ってない」「このデニムしか履かない」「このブランドのシャツだけで回してる」こうした言葉が、ぽろんと彼ら・彼女らの口からでてくる。

そして彼ら・彼女らは山のようにYoutubeなどで服を買うが、いつもだいたい似たようなシルエットや雰囲気に落ち着く。何を着ても同じだ。ちがうけれども、ある意味では同じという現象が起きる。これはいったいなんなのだろう?

ここでひとつ大胆な仮説を立てたい。それというのは、ひとは自分のユニフォームを、後天的に決めるためにファッションをしているという仮説だ。たぶんこの仮説を提出すると、さまざまなところから石礫が降りかかるだろう。しかし。ファッションというものは、やはり自分の固有の文体を探すことと似ている。

多くの書き手が村上春樹文体に憧れるように、誰かのマネをして服を着る。そしてそこに罠がある。それは10代、20代(いやすべての世代)をあっという間にとらえる。それはその個性として結晶化したその人のスタイルを、まるっきりパクって同じものを自分に着せても、そこにはマジックは起きないということだ。

そう。服と人とは、かならず相性がある。ある人が完成させたスタイルは、その完成させた人以上に、この地球上の誰も似合わない。そして文体を多くの人が完成させられないように、服のスタイルも完成させられずに終わる人が大半だ。

自分自身の結晶化。それを服で目指すのが我々だが、多くの人は結晶化させられない。そして他人のスタイルをみているうちに、短すぎる数十年が瞬きのように過ぎるのである。

つまり本当の意味で素敵なファッションとは、だれのマネでもない自分そのもののファッションなのだ。勿論アイテムはこの世界から、集めて組み合わせるしかない。しかしその組み合わせは。誰にも似ていない。そこには個人的なバランス感覚、精神性、背景、ジェンダー、肌の色、仕事との調和。

何もかもがパラメータとして入っていて、その中で自分にとっての正答を見つけ出す壮大なゲームなのだ。

ゆえに、スタイルを身に付けている人をよく見てほしい。そして我々も、その誰にも似通っていない、自分だけのスタイルへと自分を向かわせる必要がある。その道には発見があり、感動があり、恍惚があり、世界への愛があり、他者への関心がある。

ファッションで自分のスタイルを見つけることが、たぶん本当の意味での「おしゃれ」ということなのだ。


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