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ドーパミン発生的なマーケティングに意味はある?

レコードが流れる空間で、コーヒーを出すお店に最近よく行っています。この場所にいるとずっと音楽を聴いていたいため、コーヒーの後でソイラテを頼んだりしてしまいます。

気づくと1時間はあっという間に過ぎていて、まるで自分のからだの中に透明なエーテルが満たされたかのような気分です。自分の部屋に戻ってからも、お店で鳴っていた音楽はからだの中から消えていません。それは細胞の内側にすら残っていて、そこで細胞核を踊らせている気すらします。

ツイッターをはじめとして、Google検索で上位にくる記事や、Yahooのトップページを見ていると、そこにあるものはどれもドーパミンを出すようなものばかりです。つまりそれを見ているわたしたちを動揺させようとしたり、他罰的にさせようとしたり、挑発しようとしたりするもので溢れているのです。

こうしたコンテンツは(もはやコンテンツという呼び名にするのもよくないと思うのですが)本当にわたしたちの人生を、いやわたしたちのその日その瞬間を、はたしてよくするのでしょうか? これは専門家に訊ねなくてもわかります。答えはノーです。

多くのひとが、数値を追うという名目で持って、これらのドーパミン発生的なコンテンツを使ったマーケティングに駆り出されています。それは民間人が兵士にされるのと似ており、兵士をしているうちに自分がやっていることを正当化し始めたり、数値を追うことに盲目的になり過ぎたり、ともかくおかしな状態に陥ります。数値というものが、たぶん彼らをバグらせてしまっている要因のひとつでしょう。

最近わたしはスマホをなるべく見ないように心がけています。スマホを見るということは、ほとんどがドーパミン発生的コンテンツを踏むことを意味しており(半分くらいはそうでしょう)、これらから出るマイクロなストレスをなるべく減らすという実験をしているのです。

ドーパミン的なものを避け始めると、1日の中に着実に時間が積み上がっていきます。反対に時間を持て余すようになるわけです。ここでこの退屈な時間に、またゲーム(ピカピカ光って気持ちのいい連鎖で何かが消えたり増えたりするやつ)などでドーパミン的快楽を自分に与えるのではなく、それに対抗するオキシトシン的なものを摂取します。

それは読書であり、お香であり、レコードであり、なんらかのオフライン的な体験です。オフラインの体験を取り戻していくと、人生があからさまに豊かになっていく感覚があります。わたしたちはデジタルヒューマノイドなんかではなく、デジタルネイティブなんかではなく、単純にただの二足歩行する猿の末裔に過ぎないのです。



古着が人気になり、レコードやカセットが戻ってきて、実際の本を扱うお店も増えています。なぜならわたしたちはデジタルの世界にずっといることは圧倒的なストレスだからでしょう。たぶん世界がデジタルにまるまる置き換わることはありません。むしろカウンター的に世界にはアナログ的なものが増えていく気すらします。

転職活動をしていると、あらゆる法人がドーパミン的なコンテンツを作れる人材を探している気がします。彼らは挑発だったり、人を馬鹿にするだったり、目をひくだったりする能力がある人が好きです。彼ら自身がすでに他人を刺激してドーパミンを生み出すことでトラフィックを増やして、それこそが自分たちの仕事(マーケティング)だと思い込んでいるからです。

もしこのような仕事に参画すると、当然ですが毎日をドーパミンを発生させるストレスの中で過ごすことになり、それでもし仮に法人を大きくすることに貢献しても、その法人はただ社会で挑発をくり返しているだけのような存在になってしまっているのです。訳がわからないですよね。

わたしたちの仕事はドーパミン的なものから、オキシトシン的なものにシフトすべきかもしれません。資本主義社会がドーパミンでハイになっている状態を、もっと落ち着いた日々幸福な状態にする必要があるのではないでしょうか。

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