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私の大切な誰かにとって、私が大切とは限らない

人見知りだしあまり他人に興味のない私だが、もちろん大切な人はいる。
変に気負わずに会える、家族のような人たち。
でも、その人たちにとっても私が同じだけ大切な存在かどうかはまた別なのだ。

それを理解しているから、大切な人のことを想うときいつも躊躇する。

かつて私の母が癌になったとき、同じ癌を患う人たちの集いで知り合った友だちを紹介してもらった。
その人は私よりも年上で、母よりも年下の女性だった。
彼女は元々東京でイベント運営などの仕事に就いていて、だからこそより私の仕事や活動を「すごい!」と褒めてくれ、応援してくれた。
直接会う前から私が出演したこと作品を観てくれていて、会ったときにはお互い少し照れながらたくさんお話をした。
なんだかお姉ちゃんが出来たような感覚になった。
そんなに会った回数は多くはない。
けれど、これからもっと仲良くなれるんだ!と嬉しかったのをよく覚えている。

でももう彼女はいない。
あるのは彼女が私のライブの開催に合わせて、オーダーメイドして贈ってくれた、色褪せたプリザーブドフラワーだけだ。

たった数回しか会ったことのない彼女のことを想うたび、会いたくなる。
彼女にとって私の存在がどこまでのものだったかわからないし、その重さはイコールではないとしても。

また今、困難に直面している私の大切な人がいる。
その人はたくさんの人に囲まれ、不規則な仕事の私が手を貸すよりももっと素早く駆けつけられる人たちがいる。
私に出来ることは、ほとんどない。
その人の局面打開を日々祈ることくらいしかない。

少し前の私は、イコールじゃないかもしれない気持ちに戸惑い悲しんでいた。
けれどそれは必要のない悲しみだと、今はわかっている。
躊躇したとしても、想うことがイコールじゃなくても、これは私のエゴであり確かな気持ちだ。
だから間違っていない。それも理解している。

今日、とてもやさしいコマ撮りアニメーションを観て、私の大切な人たちを想った。
そしたら思わず涙がこぼれた。
ただそれだけのことだ。
その人たちが、明日も元気でいてくれればそれでいい。

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