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シアン。

教会に来るのは多分ニューヨークに家族で観光をした時以来で、天井がいやに高いが、高い割に室内であるということに嫌気がさしたが、そんなことに嫌気がさす自分に嫌気がさして「ステンドグラスが綺麗だね。」とそれらしいことを言った。「やっぱり黒人さんって香水きついのね」と母が返すので、「やめて恥ずかしい事言うの」と返した。もうその時には、母の右耳はわずかに聞こえる程度の微かな聴力であった。

コロナで良い事などないと言うし、実際に苦しむ人がいる中で心苦しいが、唯一結婚式に呼ばれなくなったと言うのが、正直なところ神がかり的な救いだった。信仰してすらいない神に、明日の約束すら守れない現代人2人が、堂々と胸を張っている姿が、わたしにはどうも耐えられなかった。高い天井なのに室内なのも嫌だった。外でやろうぜ、せっかくなら。

断れなかったが、唯一の救いは高校の時の同級生に久しぶりに会えた事だった。大学の時に、彼女がひどい鬱病にかかって以来、躊躇して連絡も取ることが減ってしまったが、かれこれ5年ぶりの再開だった。前に最後会った時は、デキャンタのワインを2人で飲んでいた時で、彼氏のことがとても好きだが、性器が異常に小さくて悩んでいるという話を彼女がしていた。フライドポテトをふたつに折って、「いや、ほんとに!盛ってない!まじで!これくらい!」とケラケラ笑っていたのが印象的だった。抗うつ剤の副反応で随分とふくよかになった。気にかけるのは周りくらいで、本人は変わらない様子で、安心した。体重なぞ、パッケージの変化でしかない。大切なのは、美味いか、美味くないかだ。大切なのは愛があるか、ないかであって、ペニスが入るか、入らないかではない。それは表層の話。私がしたいのは、中身の話。

とにかく式は退屈だった。引越し先を探す事であったり、親知らずのレントゲン写真のことや、オカメインコを飼いたい気持ちなどと向き合いながら、私は今教会のベンチに座っている。きっと信仰心を持った人たちが座ってきた椅子に、再開発前の下北沢みたいな雑多な思考を詰め込んだ脳内で、座っている。ベンチの裏に手をやると
木の凹凸があって、何やらどうやら文字が大きく彫刻刀で彫られている。私は舐めるように右手でしたたかに触りながら、「SEX」と書いてありそうだな、と思った時、「あぁ、私のような不届き者は、この世に1人じゃないのかもしれない。」と、思って見上げる天井の安いステンドグラス。右手には木の凹。

そんな時ふっとよぎるのは、会社のプリンターのインクが一色たりないこと。その一色の欠落のせいで、カラー印刷ができないこと。それはシアン。母があの時してたイアリングの色。友達があの時処方されたお薬の色。私が今、タバコ屋に預けている、小銭入れは赤色。

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