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長閑な水面。

別れの瞬間は突然くる。コンフレークに入れる牛乳が足りなくなる朝のように。あの夏の日に、意気揚々と買った観葉植物は埃をかぶって佇んでいて、その姿に、私自身を重ねた。あぁ私の人生はこういうものなのだと、雑に辟易した時、葉が一枚プツリと落ちて、カサりと床で音を立てた。部屋を見渡しながら、首にかけていたヘッドフォンをかけ直す。聞いているラジオからQueen のBohemian Rhapsodyが流れてきた。バイセクシュアルとカミングアウトの歌で、大ヒット映画の歌。受け入れたり、受け入れなかったり世は不思議ね、なんて思いながら、ゆっくりとひざまづいて、下がっていた靴下を直した。葉は拾わなかった。

同棲解消の話し合いは、見どころのない深夜番組のように淡々と進んだ。家具の所有権についても「いいよ、運ぶ車もないし」と言って、全て相手に譲って、その日に荷物をまとめて家を出た。損益などどうでも良かった、とりあえず争うことをやめられるのであれば、と思えるほどに、それくらい心が荒んでいた。後日、私の残地物で一杯になった段ボール箱の写真と日程候補がLINEで送られてきた。「このタイミングで家開けるから、取りに来て」という文を見て、面倒な気持ちになった。同棲した部屋は、相手が見つけた部屋だった。最上階の角部屋で、ワンルームであるが二人暮らしには十分な広さをしていた。バルコニーからの景色を遮るものはなく、陽当たりも良くて駅にも近かった。近所にはコンビニ、スーパー、パン屋さん、郵便局。内見をしてその場で即決し、自転車を漕いで不動産屋に直行し契約をした。その部屋に今、ポツリと段ボールが置かれている。大きな窓からは夕暮れ時の斜陽が差し込んでいて、段ボールの中に入っている私物を照らしている、そこに一つの土鍋がある。

お腹の調子が悪くなったのは同棲を始めて半年ほどのことだったと思う。向こうの浮気が分かったあたり。これ以上乱れないように。何処か何かを整えられるように。そのあたりから私は、お粥を食べることにした。同棲している中で、自分一人で整えられるのなんて腸内環境くらいであった。向こうが浮気を認めた日。関係性と共に腸内環境は瓦解した。その日、相手は泣きながら平謝りをし、とりあえずその日は相手は外泊することになった。「言いたかった。」と、言いながら外に出て、私は残置物の詰められた段ボールみたいに一人になった。心は穏やかであったが、食欲が出なかった。生活を乱されると負けた気になるので、ぐっと立ち上がってキッチンに立って、とりあえず土鍋を取り出して、粥を作ることにした。

水を入れて、火にかける。冷たい鍋の肌に火が触れる。徐々にポツポツと小さな泡が、底に現れる。粉末の本だしを入れてかき混ぜ、そこに白米を入れる。目分量でよい。キャンプに行った時の川の浅瀬っぽくなる感じで。そんなもんで良い。かき混ぜて、塩を入れて蓋をして、弱火で気長に火をかける。気づくとカタカタと音がしてきて途端、ボコッと鳴って蓋がずれる。白濁色の気泡が顔を見せ、それがどろっと鍋の肌を這いながら落ちていく。コンロの日に触れてそれがまたジュぅっと音を鳴らす。それは鍋を伝った温度変化ではない、紛れもない水と火の接触から生まれるシナジーで、私はそれを見ながらそこが熱くなるのを感じる。溢れた。こぼれた。弱火でずっと、ずっと弱火でやっていたのに、蓋がズレて、吹いて、こぼれて、燃えて消えた。生まれてこなければよかったと、思いながらも、その日から私は、お粥を食べるようになったし、他の人とも会うようになって、スパッと別れて同棲を解消した。

そういった雑多な過去を思い返す。ラジオを聴きながしながら、細々とした私物を部屋の中からかき集める。下着、マイナンバー通知カード、歯ブラシとマグカップ、そういった細々とした生活の断片を集めて段ボールに詰めて封をした。ふと起き上がって目をやると、水槽の中を穏やかに泳ぐ金魚と目があう。近づくと水面に口を近づけて、パクパクとする。かわいそうだなと思って、水槽の隣に置いてある餌の筒を取ろうとした時、ふと私は何をしているのだろうと思う。何をしているのだろう。丁寧に時間をかけて、何をしてきたのだろう。弱火でゆっくりと火にかけて、何をしているのだろう。グッと拳を握り締めて、机にドンっと叩きつける。その振動で水槽の水面が大きく揺れた。タップッと揺れた。「あぁ!」と思いの限りに咆哮した。

だが、ヘッドホンをしていたので私には聞こえなかった。

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