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「悲哀の月」 第76話

 里奈の聴覚に機械音が戻ってきた。
 一定期間を置いて鳴っている。
 容体が安定しているという証だ。
 だが、それももう長くはないだろう。
 里奈にはわかっていた。
(健介。ありがとうね。私と出会ってくれて。二年ちょっとの間だったけど、本当に楽しかったわ。幸せだった。健介といる時間は)
 そのせいか、胸の中では雨宮への感謝の気持ちを並べていた。
(本当はもっと長い間、一緒にいたかったんだけどね。残念だわ。それは出来そうにないわ。私はもう駄目みたい)
 直後に敗北宣言が出る。
(ごめんなさいね。こんなことになってしまって。せっかくこれからという時だったのに。私のせいで全てが台無しになってしまったわね。本当にごめんなさい)
 気持ちは謝罪へ変わる。結婚生活は僅か二ヶ月ほどで幕を閉じようとしているため、申し訳なさしかなかった。
(私、悔しいよ。こんな結果になって。もっと生きたいよ。健介といたいよ。いろんな姿を見たいよ。子供だって欲しいよ。パパとママにだって見せたいよ。二人の喜ぶ顔も見たいよ。やりたいことだって、まだまだたくさんあるし)
 謝罪は未練に変わる。
(もし出来るのであれば、あの日に戻りたい。そうすれば、絶対にあの店には寄らないから。真っ直ぐ家に帰るから。絶対に)
 未練は後悔に変わる。
 その気持ちは余程強いのだろう。
 ベッドで眠る里奈の体に変化をもたらせた。
 目から涙を流させたのである。涙は目から筋を作りながらこめかみを伝い、髪の中へ消えた。
「里奈さん」
 涙に気付き来生はすぐに呼び掛けた。危篤状態と言うことで、彼は時間が許す限り、里奈の様子を見に来ていた。
 それは、彼だけではない。
 他の人も同じだ。
 里奈のベッドの周囲には多くの看護師の姿がある。
「里奈さん」
 看護師の誰もが里奈の名前を呼んでいる。
 その中、里奈はうっすらと目を開けた。
 続いて口が動く。
「何ですか。里奈さん。もう一度話せますか」
 来生は口元に顔を近づけた。
 だが、そこまでだった。
 直後に数値が大きく狂い始めた。グラフの線は激しく乱れ、急を知らせようと機械音のピッチも上がる。
「大丈夫ですか。里奈さん。頑張ってください。聞こえますか」
 来生は必死に呼び掛けたが、状況が変わることはない。機械音が忙しくなって行くばかりだ。
「頑張って。里奈さん。あきらめないで」
 看護師達も必死に呼び掛けているが、その声に里奈の胸に届くことはなかった。
 やがて、恐れていた時が来てしまった。
 断続的に鳴り続けていた音が継続的に変わった。
 モニタのグラフからも波が消え、直線になった。
「駄目だ。ここまでだ」
 何とかしたかったものの、こうなってしまってはもう出来ることはなかった。里奈は医師と数人の看護師が見守る中で静かに息を引き取った。


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