見出し画像

わたしの父。


父について思い出しながらちょこちょこ綴っていっています。


もしまだ読んでなければこちらを先に。

今日も統合失調症だった父のこと。


-2-にも書いたように、父はたまに旅行に連れて行ってくれたり、休日には車で景色のいいところに連れて行ってくれた。
怒るとめんどくさいし怖いけど、普段はとても優しい父。

わたしが小学生のころ、小学校で年一回マラソン大会があった。
うちの小学校は、結構大きい学校だったみたいで、校舎を挟んで上と下に運動場と体育館が2個あったり、校舎裏から上の運動場の間に"ふれあいの森(アスレチックがたくさん)"があったり、校舎が横にすごく長かったり。
もう少し説明すると、上の運動場から校舎に入ると、校舎の3階。下の運動場から校舎に入ると、校舎の1階。という斜面を使った面白い立地だったり。

子どもながらに自慢の学校だった。

マラソン大会のときは、まず上の運動場を何周かぐるぐると走って、そこから校外へ出る。
まず、この急勾配を走れる?と思うくらいの上り坂、通称"地獄の上り坂"をかけのぼって、今度は住宅地をくねくねしながら上からどんどんと下っていき、下の運動場のほうへ走り抜け、下の運動場で何周かして、ゴール。というもの。

わたしは運動はそんなに得意ではなく、短距離は足が遅くて苦手だったけれど、長距離は比較的得意だった。長距離は訓練さえすれば己との戦いでなんとかなる、ような気がしていた。

だから、毎年マラソン大会が近づくと、姉と一緒に近所を走って特訓していた。
例えば、暗くなった夜でも。
そんな時は、危ないからと言って、決まって父がついてきてくれた。

車で。

自転車のときもあったかもしれないけれど、わたしの記憶の中には車の記憶が強い。

車通りはそんなに多くない道だけど、わたしと姉は、父が運転する車のヘッドライトで照らされた道路を走っていた。
それはまるで、テレビでみるマラソンの"中継車と走る選手"のよう。

夜道でも、後ろから照らしてくれる光は温かく優しく感じた。

たぶん、多少の交通障害になっていたかもしれないけれど、
父の優しい思い出のひとつだ。

あと、もうひとつ思い出した。

父と向かい合って両手を繋ぎ、わたしは父の足元から、父のぽっこりしたお腹をめがけて、勢いよく駆け上がって、蹴り上げ、そのままくるっと回転する。手繋ぎ逆上がり?みたいなものをよくさせてもらっていた。
たぶん痛かったと思うけれど、ニヤニヤした優しい顔で何度も何度もさせてくれた気がする。


.
.
.
.
.


ここからは、優しくない思い出を書く。


(苦手な方はスルーしてね)


きっと病気の影響があるのだとおもうけれど、今になっても、あれは父の気質によるものなのか、病気の症状なのか、分からないし、区別がつけられていない。


ある日、父が好きだったお菓子"ロッテのカスタードケーキ"の"父の分"を、わたしが食べてしまった時があった。
それに気づいた父は怒り、リビングの吐き出し窓からわたしを家の外に出した。
わたしは、ごめんなさい、と言いながら、泣きながら、その日の数時間を庭で過ごしていたようにおもう。
また別の日には、"近所のお店に行ってタバコを買ってきて"と父に頼まれたのだけど、嫌だと断ったら、お尻をパシパシと叩かれた。
子どもながらに、こんな子供じみた理由でそこまで怒る父に理不尽な想いを抱きながら。

わたしは、こんな風にたまに父の怒りを買っては、家に入れてもらえなかったり、お尻ぺんぺんされたり、頭を叩かれた。でも、叩かれたのは拳ではなく、平手で、それも数えるほどだ。
わたしにとっては、暴力といえるほどのものではなかったので、それがわたしの中での傷にはなっていない。とおもう。
だけど、小学三年生のとき、クラスの女の子と「親に叩かれたことがあるか」みたいな話になったときに、みんな「叩かれたことなーい」って言っているのを聞いて、
親に叩かれることは、普通ではないのだな、と知った。



うちの場合、父による暴力はほぼ100パーセント、母に向けられた。


父の病気の症状として、わたしが認識できたものは、幻聴、幻覚、被害妄想。

父はよくボソボソボソボソ何か呟いていて、あそこで誰かが文句を言っている!!!だとか、攻撃してくる!だとか。
わたしには理解しようにもできない。
症状が出ているときの父は、いつも何かに怯えるように、攻撃するように、過ごすことが多かった。
それに立ち向かったときは、壁に拳を振り翳して、大きな穴を開けてしまうし、そのどうしようもならない苛立ちを母に向けてしまっていたのだとおもう。父が唯一甘えられる存在の母に。


よく被害妄想の言葉から続くようにして、母に対する文句が父の中からどんどん湧いて出てきて、前に母と喧嘩した内容をほじくり返しては母をねちねちと言葉で攻撃することが多かった。
最終的に、それが暴力になることもしばしばあった。

それは平手の時もあれば、拳の時もあり。
足で蹴ったり。そういうものだった。

わたしは、そんな怖い父に対して、辞めて、ということは出来たけれど、父の行動を抑えて止めることはほとんどできなかったとおもう。

そして、近所の人に対しても、被害妄想があったので、たまに警察を呼んで近所の方と揉めてしまうこともあった。

もちろん、母から近所の方には、父の病気のことを説明していたけれど、近所の方からの心象は良くはないのは明らかで。

ちょっとずつ、ちょっとずつ、ここには長くは居られないかもしれない、という空気が漂っては、"でも一軒家建てたんだから、引っ越すことなんてまさかないよね"、と自分を落ち着かせていたような気がする。

そんな一軒家時代、父は症状がひどくなるたびに、病院に舞い戻るという生活を繰り返した。


.


わたしが中学に上がるタイミングで引っ越すことになった。父が引っ越すと言って聞かなかったようだ。
父の近所トラブルはあったものの、近くにたくさん同級生がいたし、せっかくの一軒家で広い自室がある家を離れるのは嫌だったけど、仕方なかった。

わたしが通う中学は、わたしがいた小学校と、もう一つの小学校の子どもが合わさるようになっていたのだけど、そのもう一つの小学校の地区へ引っ越した。一軒家から、アパートへ。
一軒家からアパートに引っ越すことも稀だし、同じ中学校区内で引っ越すのも稀だったので、"なんで引っ越したの?"と聞かれると困るものだったけれど、仕事の都合、などと適当に答えていた気がする。


でも、そのアパートでの生活も、2年半で終わりを迎える。引っ越した先にも友達ができたりはしたけど、アパートにいい思い出はほとんどない。
最後のほうは、父の暴力と阪神大震災(隣の県)の怖い記憶しか残っていない。

寝室で、父が母を殴る音が聞こえる。
母の、やめて、と言う声も聞こえる。
父の怒声は続く。
わたしは隣の部屋で耳を塞ぐことしかできなかった。布団をかぶって聞こえないようにしながら、なかなかおさまらないこの時間が、早く過ぎてほしい、と何回も願った。

翌日に会う母の顔や体には、青あざが作られていて、そんな状態でも、眼帯などで傷を少し隠しては仕事に出かけようとする母がいた。

このころの父は興奮すると食器を叩きつけたり、壁を殴ったり、アパートということもあって、いろんな音が被害妄想を助長させるのか、前にも増して被害妄想が激しくなった。
そんな日々が続いたから、わたしは、いつかテレビのニュースで我が家が登場するんじゃないか、誰か殺されてしまうような事件が起こるんじゃないか、とよく想像していたな。



母はそんな日々に、とうとう耐えきれなくなって、わたしが中3のときに家を出ていき、実家に帰った。
一旦、わたしたち子供はアパートに取り残されたのだけど、父はわたしたちに暴力をふるうことはなかった。そして母もしばらくして迎えにきてくれて、その後わたしたちは、母の実家に居候することになった。

実は、迎えにきてくれたとき、母は「お母さんについてくる?お父さんについてくる?」と聞いてくれたのだけど、わたしは、こんな父だったけれど、父を嫌いにはなれなくて、好きなところもあったから、父と一緒いれるのはわたししか居ないかもしれない、と父と暮らす生活もすこし考えた。
けれど、現実的には厳しすぎるので、わたしは母についていった。
母もわたしがもし父と居る、と言っても、一緒に連れて帰ってくれていたとおもう。




これはまだ小学生のとき、一軒家に住んでいたときのこと。

いつか、お家にわたしのクラスメイトが遊びにきた時があった。(友達と言いたくないから、クラスメイトと呼ぶことにした)
普段は、家に父もいるし、あんまり家には友達を呼んだりはしないのだけど。

その日はいつもどおり父は家にいて、優しい父、甘やかしてくれる穏やかな父でわたしたちに接してくれていた。

けれど、
父がその場を少し離れたとき、友達はわたしに向かってこう言った。

「⚪︎⚪︎ちゃんのお父さんってキチガイなんでしょ?」

わたしは、キチガイの意味が分からなかったけれど、よくない言葉だとはなんとなくわかった。

あとで母にそう言われたことを伝えて、
"きっと、その子の親が、お父さんのことをそんな風に言っているんだね"と、母と察して、悲しくなったのを覚えている。





病気に対する偏見は、こわい。
わたしも暴力をふるう怖い父と対面しているから、それが病気によるものでも、そうでないとしても、その怖い印象があるから偏見が全くない、といえば嘘になるのだけど、
外野からそんな風に父を呼ばれることは、とてもとても気分が悪かった。
父の何を知ってるんだ!と。
父もなりたくてなってるんじゃない!と。


そのクラスメイトとは、同じクラスじゃなくなってからは、付き合うのをやめた。


わたしが小学生当時、父の病名は、統合失調症という病名ではなく、精神分裂病だった。
調べると、2002年に、偏見を生みやすいこの病名"精神分裂病"から、今の病名"統合失調症"に変更されたみたい。

わたしも母から最初聞いたとき、精神が分裂???!と、なんとなく大層な病気なんだな、と思った気がする。そして、母もその病名はあまり人に話さない方がいい、と教えてくれた。


わたしは、大人になってからも、父の病気のことで人生が少し行き詰まった気分になったことがあるので、世間の病気に対する偏見はあるのだろう。

でも、そういう偏見を少しでも減らそうと動いてくれている方たちもいる。

病気はだれのせいでもない。

父も得体の知れないものと毎日たたかっている。



その事実を分かっていながらも、
わたしは父を嫌いになる理由を探しては、
父と遠ざかっている自分を、今日も正当化しているのかもしれない。




これは、あくまでわたしの父の症状であり、統合失調症=暴力、なわけではありません。そこは誤解しないでいただきたいです。
この文章がさらなる病気への偏見をうんでしまうかもしれない、という不安を抱きながらも、この病気と病気を取り巻く人たちがどんな生活を送っているのか、参考になればとおもいます。


たぶん、まだ父のことで書きたいことが湧いて出てくると思うので、またよかったら読んでくれたらうれしいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?