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【サ活】ととのいの極意

サウナが好きだ。

テレビのない、静かでこじんまりとしたサウナで瞑想するのが好きだ。

サ活を始め、サウナで瞑想する時間を取るようになってから、
私の普段のパフォーマンスは心なしか良くなった気がする。

何が良くなったとは一言で言えないが、
とりあえず辛いことがあってもクヨクヨ悩まずに済むようになったのは大きい気がする。
それどころか対処法をすぐに見出して、大概の問題はすっきり自分の中である程度の落とし所をつけられる自信がついた。
眠りも少し改善したし、体調を崩してもあまり薬に頼らずにある程度改善させることができるようにもなっている。

ただ、何より私がサウナで瞑想することが素晴らしいと感じているのは、
いつでも、どんなサウナであっても、ととのうことが出来る
と感じているし、その自信があるからである。

これから、私がサウナで瞑想するようになってから気づいたことをまとめてみたいと思う。
科学的根拠があるわけではないが、私の肌感覚と体験によって、これはある程度まで正しいと思っている。

ととのいの極意は呼吸にあり

サウナにいる数分間、ただ黙って黙浴している間、ずっと呼吸に意識を向け続ける
とてもシンプルだが、これこそがととのいの全て。

呼吸に意識を向けるのは、当然だが意識をして向けないと難しい。
そして、やってみたらわかることだが、サウナにいるおよそ6分から10分超の間中、ずっと呼吸だけに意識を向け続けるのは、大変な苦行でもある。

だが、サウナにいる間、いかに呼吸に意識を向け続けられるかによって、その後の水風呂、そして外気浴で味わうととのい体験がより深いものに変わってくることを、私は体感覚で味わっている。
まずは、今から言うフローを、実践してみてほしい。

サウナ瞑想・ワークフロー

まずは、呼吸に意識を向けることから始めよう。
サウナのベンチに座って、まずは一旦、長ーく、息を吐いて。
それから、鼻から自然に入ってくるサウナの熱気をじっくり味わいながら、お腹に、肺に、落とし込んでいく。
それからしばらくは、自然呼吸に意識を向ける。
肩の力を抜いて。
呼吸に意識を向け続けると、自ずと呼吸は深い、深ーい呼吸に変わっていく。
その変化をひたすら、味わい続ける。

気がつけば、
雑念がない状態を味わっている場合もあるし、
より雑念がクリアに感じられるようにもなる。
雑念は、消そうとしなくていい。放っておく。
ただ、「あぁ、そうなんだなぁ」と感じるがままに放っておく。
雑念に囚われそうになったら、また呼吸に意識を向け直す。
ととのい体験がある人は、これまでに味わったととのい体験を思い浮かべながら「あの状態に還っていけばいいんだな」と意識を向けてみるとうまくいきやすい。

これを、その時の体調やサ室の温度、座る段の位置、ロウリュのある無しに応じて、自分のペースでひたすらやり続ける。
「そろそろあがりたいな」と感じてきたら、無理はしない。
瞑想は無理に続ける必要はない。「ロウリュ、いいですか」の声かけだったり、隣近所の席の人の入れ替わりだったり、サウナマットの交換だったり、ちょっとしたことで瞑想状態から現実に戻されることはしょっちゅうある。それも、受け入れる。

何も高尚なことはしていない。
ただ純粋に、至高のととのい体験が降りてくることを目指してやっているのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
大事なのは3つ。

  1. 呼吸に意識を向け続けることで、体の内側(内臓)にサウナの熱気を送り込むこと

  2. 呼吸に意識を向けながら、サウナの空間全体を感じて、味わい尽くすこと

  3. 普段意識することがない、身体全身の血液の巡り、息の巡り、熱の感じ方、音の感じ方などの体感覚を感じるがままにフォーカスし続けること

要するに、「思考を落として感覚優位になる」を、サ室にいる間に十分にやっておこうという、そういうことなのだ。

瞑想する時の姿勢

ちなみに、座る姿勢は、出来れば背筋が伸びているといい。
その方が内臓に均等にサウナの熱気が回る。
あぐらをかいて座ると、背筋が伸びた状態をキープしやすい。あぐらをかくほどのスペースがない時は、背筋を伸ばして座った状態をキープする。
手は膝の上、手のひらが上を向くように置く。こうすることで、肩甲骨が背骨にキュッと寄るので、背中がまっすぐの姿勢をキープしやすい。

目は瞑っても、瞑らなくてもいい。呼吸に集中できさえすれば良いので、そこは自由。私は目を瞑ることが多い。

時間は測ってもいいし、測らなくてもいい。だが、出来れば12分計や砂時計の類を意識しないでいられると最高だ。
私は裸眼の視力が弱くてそういった時計が見られないので、Xiaomiのmi band 4というスマートウォッチで時間管理をしている。が、いずれそういったものは必要ないようにしたい。
確かに、時間管理は大事だが、時間に囚われるとうまく瞑想状態に入ることができない。自分の体感覚で「まだ居れるな」「あ、そろそろ出ようかな」の判断ができるようになるとベストだと思う。

理論的な話

そもそも、「サウナ→水風呂→休憩」のフローによって生じる、身体の感覚や外界の音がクリアに感じられるようになり、雑念が消えて心が平穏になった状態、つまりととのい体験は、温冷交代浴によって物理的に思考が落とされることによって生じるものと思われる。
そこで、サウナ瞑想なのだ。一方では「サウナ→水風呂→休憩」のフローという物理的な思考落とし装置があるが、それを補助的に、あるいは効果的に機能させるために、「呼吸と瞑想」という思考落とし装置をうまく機能させる。
呼吸に意識を向けることには基本的に以下の機能があり、しっかりマスターすれば実は呼吸だけでととのう、といったことも可能である。

  • 物理的機能:サウナの熱気を内臓に染み込ませる

  • 精神面の機能:心を穏やかにして、思考優位から感覚優位にスイッチを切り替える

  • スピリチュアル的機能:身体感覚だけでなく霊的感覚にも意識を向けやすくなり、来るべきサウナトランス状態に移行するための下拵えになる

五臓六腑でサウナを味わう

まず、呼吸によってサウナの熱気を内臓に染み込ませ、内臓を温めるということの大事さについて述べたい。
サウナ1セット目、サ室に入ってからしばらくの間
「身体の芯、冷えてんな」
と感じることはないだろうか。
これは、身体の表面温度がサウナの室内温度とギャップがあるのと同時に、内臓の温度との間にもまたギャップがあるからそう感じられるのである。とりわけ、夏に冷房の効いた室内にずっと居た時や、冬時期のサウナではそう感じられやすい。
このギャップを埋めようとサ室に長居しようとするのは、ととのいの真実の半分しか見えていない。つまり、サウナにいる時間を長く取ればとるほど、物理的には身体の表面の温度が上がりはするが、身体の表面だけ温度が上がっても水風呂に入ればすぐに帳消しになってしまうため、ととのいはあっても小ととのい、ゆるいととのいにしかならない。
そこで、深い呼吸によって身体の内側にサウナの熱気を送り込む。呼吸に集中していると、だんだん身体の内側が温まってきて、身体の芯の冷えが取れてくる感覚が味わえるはずだ。
それと同時進行で、心拍が強かに脈打っている感覚を全身で味わうことができるようにもなってくる。これを、私はととのいメーターと呼んでいる。
深い呼吸を続ければ続けるほど、心拍の脈打ち方が強かになってくるし、心拍の脈打ちが強かであればあるほど、次に水風呂に入った時、そしてととのい椅子に座って外気浴する時に体験することになるととのいが大きくなる。
ととのいメーターを自在に操ることができるようになれば、今日はゆるいととのいにしようと思った時に狙った通りにゆるいととのいを経験できるし、その逆もできる。何より、身体が「これ以上は無理だ!」と悲鳴を上げるまでサウナに長居することがなくなるから大変健康的だ。
ととのいメーターの本質は、詰まるところ内臓の温まり具合にある。サウナで身体の芯を温めることによって、その後水風呂に入った時に体表面は一気に温度が下がるが、温まった内臓の方はゆっくり冷やされていく。体表面と内臓で温度のギャップができた状態で、同時に血流が促進されていると、身体の内側から表面に向かって熱が逃げようとするので、あたかも水風呂に浸かりながらにして身体が絶妙に温かいという感覚を経験することができる。これが、水風呂気持ちいい、の正体だと考えられる。加えて、例えば90℃→18℃というふうに世界が一気に変化すると、脳のフォーカスが思考から感覚(「冷たい!」「気持ちいい!」)に急激かつ強制的に逸れるしかなくなるわけで、これこそサウナが「思考落とし」と言われる所以だ。だが、この思考落としも、サウナにいるうちに内臓がしっかり温まっており、尚且つできるだけサウナにいるうちに脳のスイッチを感覚優位の状態に切り替えておくことによって初めて十分に機能することができる。

結論。サウナを五臓六腑で味わおう。呼吸によって内臓を温めることを意識してサウナに入ると、サウナの温冷交代浴としての物理的機能をフル活用することができ、絶大な効果(至高のととのい)が期待できるようになる。

サウナの空間を味わい尽くす

次に、サウナでなぜ瞑想なのかということについて語っていきたい。

呼吸に意識を向けると同時に、私は心静かに穏やかになるために、目を瞑り、姿勢を整えて、時には胡座をかいて手を上に向けるポーズを取る。
そうすると、自分の身体感覚が研ぎ澄まされると同時に、空間全体の認識精度が研ぎ澄まされてくるようになる。具体的には、わずかな音も敏感に聞き取れるようになるし、わずかな熱の変化にも敏感になることができる。
サウナの「空間全体を味わい尽くしている」のである。これが、とてもいいのである。

一般的に瞑想は、マインドフルネスなどに見られるように集中力を向上させたり、気分を安定させたり、精神のレジリエンス(辛いことがあっても立ち直る力)を向上させるという効能が分かっている。だが、私はそれを狙ってサウナ瞑想をやっているわけではない。先に挙げた効能はあくまで私にとっては副次的な効能でしかない。

サウナ好き、一サウナーである私がサウナ瞑想をおすすめするのは、あくまで
バチクソにととのう
ためであり、かつまた
サウナとの出会いを無駄にしない
お世話になるサウナ施設を全身で存分に味わい尽くす
ためである。

考えてもみてほしい。
都内の良いとこのサウナ施設は入館料だけで2,000円〜3,000円超のお金を取られてしまう。
それに加えて、お風呂上がりには食堂でオロポやサ飯を頼むし、自動販売機は館内価格。160円の天然水もしくは190円や200円もするイオンウォーター・ポカリスエットを、「高ぇなぁ」とか思いつつ「まぁでも水分補給だしな」と思って買うわけじゃないですか。
サウナ施設を出る頃には、リストバンドのバーコード・ICチップに溜まっているご請求額が、5,000円、6,000円超えてるなんて、ザラっすよね
ととのうのだって、安かぁないのである
だったら、せめて存分にサウナ味わい尽くして、バチクソにととのってからニコニコ顔で退館したいわけじゃないですか
その為の、要はととのいコスパを上げるための、サウナ瞑想なのである。

サウナで瞑想すると、その施設のサ室空間の良さも悪さも全部含めて味わうことができる。
通い慣れてくると、そのサウナでどうととのうのが最適解なのかを、自分の体調や気分に応じて調節できるようになる。
何より、サ室空間全体を感じながら入ることができるので、ただ漫然とサウナに入っているよりも、より「このサウナ、いいなぁ!」と感じられる何かを見つけやすいのだ。
「このサウナ、いいなぁ!」が見つかると、どんなサウナでも帰りはニコニコして帰ることができる。
マインドフルネスの技法で、「一粒のレーズンをゆっくり10分くらい時間をかけて口の中で転がして味わう」という技法があるが、それと似ている。サウナも空間全体を味わおうと思って集中して味わっていると、そのサウナの良さがだんだん分かってきたり、これまで観察したことがなかった新たな発見が見えてきたりするものだ。

結論。3セットのうち1セットでもいいから、瞑想しながらじっくりサ室全体を味わうセットを持とう。せっかくバカにならない金を払っているのに、勿体無いよ、ってのもあるけど、何より味わえば味わうだけ、そのサウナの良さが見つかって、お得感もあるよ。

身体と魂と大自然が一体となっている感覚を味わう

コスパの話をがっつりしてしまったので、瞑想とかそゆこと言う割には私のことを割とケチくさい人なのかなと思っているかもしれないが、その通りである。
その通りなんではあるが、何でもケチケチしてたらそもそもサウナーなんぞやってらんないのである。最高のととのいのためならどこにだって行く、何でもやる。それがサウナーの性だからである。高い入館料だって払うし、何となればテントサウナ買っちゃったり、家にサウナ小屋おったてたりだってしちゃうのである。
となれば、である、私は今一度考えたい。

最高のととのいとは、何か。

現時点で私が思うのは、やはり、一体感、ではないかと思う。
サウナ・水風呂の後、ととのい椅子に座った時に、フワーっと訪れるあの何とも言えない「すべてがつながっているんだなぁ」という感覚。
綺麗な空が見えると「みんな空の下で一つなんだなぁ」と思えたりとか、風がひんやりして気持ちいいと「あぁ、この感覚にいつまでも浸っていたいなぁ」と思えたりとか。
こんなことは通常私たちが空を見上げたり、風に当たったりする時には思えない。でも、サウナでととのっている間だけは、そんな感情が湧いてくる。それが、私たちの日常の中に感覚優位な時間、思考が落ちている時間、すなわちととのっている時間をあえて設けることの意義なのではないかと思う。
サウナにいる時だけは、身体の感覚を意識することができる。吸う息吐く息が身体の中を動く感覚、心臓が脈打つ感覚、血流の感覚、肌ツヤの感覚、内臓の動きの感覚……いろんな身体の感覚に特に意識せずとも意識が向く。
それと同時に魂の感覚としか言いようがない感覚も湧いてくる。ととのっている時だと、隣でととのい椅子に座っている人の存在が濃く感じたりとか、何となくそこにいる人の存在がよりビビットに(時にうるさく)感じてしまったりとか。その、うまくは言えないが、存在の濃度というか、空間が澄んでいるか澱んでいるかとか、そういったあたりがふわっと感じやすくなっているとスピリチュアル的には魂の感覚センサーが鋭敏になっている感じがするのだ。
そして、大自然との一体感。外気浴中に耳に入ってくるのは、車や電車の音だったり工事の音だったりが聞こえてくる場合もあるが、風の音や鳥の鳴き声、川のせせらぎなんかが聞こえてくると、大自然の中に自分がいるんだなぁと感じて気分がほぐれていくことがある。
最高のととのいとは、自分自身の身体と、自分も含めそこにいる人の魂と、大自然とが、共鳴しあってChillしている、そういうととのいこそが最高なのだと私は思っている。
そのととのいに至るために、サウナ瞑想は役に立ってくれる。

およそ「サウナ道」なるものがあるとしたら、それはサウナを通して自分と向き合い、自分を見つめ続ける道であると思う
決して、サウナ施設の良し悪しをどうこうしたり批評したりするものではない。「こういう施設だったらととのう」だとか「水風呂がこの温度だったらいいのにな」とか、そういう議論は瑣末というか、本質から逸れているように思う。人気店だから、有名店だからバチクソにととのう訳ではない。有名熱波師の風だから確実にととのうとか、そういうのは宣伝文句にはなっても、ととのいの極意からは逸れている。
問題は、サウナにいる時間、どれだけ自分を見つめる時間にできるか、だ。ただ黙って身体があったまるのを待つだけでは勿体無い。テレビ付きサウナだと漫然と時間を過ごすには丁度いいから、瞑想する気分にすらならない時には心に沁みるものがある。テレビ付き、私は好きだ。だが、基本は静かなサウナで瞑想して、自分と向き合っていたい。

かくいう私とて、「瞑想いいな」と常々思っているけど、日常にその習慣を保とうとして挫折したクチである。
唯一、サウナにいる時間だけが私の日常の中でまともに瞑想に取り組める時間なのだ。
何か結果を出したり時間を有意義に過ごす方法がないかつい探してしまう私が、サウナにいる時間を有効に活用できる方法がないか考えながら、自然とやっていたのが、サウナ瞑想だった。
やってみたら、とてもよかったのである。
何か目に見える変化が一気に訪れるとか、そういうことは決してない。
ただ、サウナに通っては瞑想し、瞑想したくなったらサウナへ行きということを繰り返しているうちに、じわじわと、変化は訪れてくる。
どうよかったのか、どういう変化なのか、言葉にするのは難しいが、あえて言うなら、普段は「自分」だとか「思考」だとかに凝り固まった世界の住人だったのが、もう一つの世界、「一体感」そのものの世界、「感覚」の横溢する世界の住人にもなれたという、そういう感じなのだ。多分、人よりは人生は豊かになっていると思う。

結論。みんなもサウナで瞑想しよう

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