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芥川龍之介の死と関東大震災

昭和文学史の起源

 かつて昭和文学史というものが盛んに議論されていた。

 議論の焦点のひとつは、昭和文学史がいつから始まったのかということである。昭和文学史の起源については、2つの説があった。

 1つは1923(大正12)年の関東大震災および翌1924(大正13)年の『文芸時代』『文芸戦線』の創刊を起源とするもので、もう1つは1927(昭和2)年の芥川龍之介の死を起源とするものである。

 しかし、東日本大震災を体験し、吉村昭の『三陸海岸大津波』や『関東大震災』を読み返してみた時に感じたのは、関東大震災というものと芥川龍之介の死というものがどこかでしっかりと繋がっていたのではないかということである。

ぼんやりした不安

 「ぼんやりした不安」という言葉を遺した芥川龍之介が自らの命を絶った理由についてはさまざまな説があるが、芥川龍之介自身が「或旧友へ送る手記」に書いているように、「生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機」を列挙したとしても、「だから自殺した」と単純に結論づけるのは早計である。

 たいがいの自殺は、たとえ引き金となる出来事を特定できたとしても、それだけが理由であると断定できるほど単純なものではない。

 そこにはおそらく、本人にすら意識できない理由が横たわっている。

 だからこそ芥川龍之介は、「が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。」と書き付けたのだ。

 そして、東日本大震災を体験した私には、「ぼんやりした不安」を芥川龍之介の中に醸成した条件の一つに関東大震災という出来事があったのではないかと思われてならない。

「大正十二年九月一日の大震に際して」を読む

 その気になって探せば、芥川龍之介が書いた小説のそこかしこに関東大震災の影を見つけることができるかもしれないが、さしあたり「大正九月一日の大震に際して」という随筆を取り上げてみよう。

 そこには、大震災が起こる前の8月25日から大震災後の9月2日までの出来事と、大震災に遭遇した芥川龍之介の感慨が平明な文章でつづられている。

 興奮したり扇情的になったりすることはなく,あくまでも淡々と書きつづられている。

 ただ、淡々と書きつづっているからと言って、芥川龍之介が衝撃を受けていないと考えることはできない。

 異常な出来事が起こり、外界から強烈な刺激を受けているにもかかわらず、それを抑制して何ごともないように振る舞ってしまうという「正常性バイアス」のような心的なメカニズムが働いている可能性を考えておかなくてはならないからだ。

 口語体ではなく文語体が選ばれているのも、もしかするとそういう心的なメカニズムと関係があるのかもしれない。

 芥川龍之介は、こんなことを書いている。

九月二日。

 東京の天、未だ煙に蔽はれ、灰燼の時に庭前に墜つるを見る。円月堂に請ひ、牛込、芝等の親戚を見舞はしむ。東京全滅の報あり。又横浜並びに湘南地方全滅の報あり。鎌倉に止まれる知友を思ひ、心頻りに安からず。薄暮円月堂の帰り報ずるを聞けば、牛込は無事、芝、焦土と化せりと云ふ。姉の家、弟の家、共に全焼し去れるならん。彼等の生死だに明らかならざるを憂ふ。

芥川龍之介「大正十二年九月一日の大震に際して」

 この随筆は、8月下旬に鎌倉に滞在していた時のことから書き起こされているのだが、田端の自宅で被災した芥川龍之介が、東京都心部や神奈川県の被害が甚大であったという情報に触れ、親族や知人の生死すらわからないという現実に感じる憂いは、サバイバーズ・ギルト(生き残りの罪障感)と地続きである。

 また、吉村昭の『関東大震災』(文春文庫)などを読むと、1923(大正12)年9月1日に起きた巨大地震がどれほどの悲惨な災害であったのかがわかるのだが、そういう巨大な惨事に直面した芥川龍之介の動揺を想像させる叙述を見出すこともできる。

 自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑すべからず。人間たる尊厳を抛棄すべからず。人肉を食はずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食はん。人肉を食うて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。

同上

 巨大な惨事がすぐ近くで起きていることを知りながら、あるいは知っているがゆえに、そういう惨事を糧に生きていくことを宿命づけられた作家という存在の悲劇を感じる。

 芥川龍之介は、この随筆を書くことになった経緯について、こんなことも書いている。

 地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に応じ難ければ、思ひつきたること二三を記してやむべし。幸ひに孟浪を咎むること勿れ。

同上

 東日本大震災と福島原発の事故が起きた後、関連書の刊行が相次いだ。

 書店に行くと、関連書の出版点数は、ちょっと常軌を逸していると思えるほどだった。

 そして、東日本大震災から12年が経過した今日においても、多くの関連書が出版され続けている。

 出版不況と言われる状況の中にあって、とにかく読者の支持を得られるものであれば何でも出版するということなのかもしれないが、惨事をネタに商売をせざるを得ない立場の人たちの心の中に堆積していく感情の負荷が、芥川龍之介と同じような悲劇を引き起こしていないことを祈るばかりである。

 ―関東大震災から100年目の春に


        未


※アーカイブされているFacebookのノート「芥川龍之介の死と関東大震災」より(写真は、震災遺構・浪江町立請戸小学校)


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