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最初は単色に見える世界が、どんどん色づいてくる、そんな気がする一冊です──ジュール・ルナール『博物誌』

「蛇    長すぎる」

という短文があまりに有名なルナールの『博物誌』です。最近はあまり聞かれなくなりましたが、この本には〝エスプリ〟という言葉が一番ふさわしいように思います。
短文ではほかに
「あぶら虫 鍵穴のように、黒く、ぺしゃんこだ」
「蚤    弾機(バネ)仕掛けの煙草の粉」
などがありますが、同じ短文でも
「蛍    いったい、何事があるんだろう? もう夜の九時、それにあそこの家では、まだ明りがついている」
となると、少し感じが変わってきているように思います。

ウィット、ユーモアというものではくくれないものがここにはあります。
「雄鶏」では二つの話が綴られています。どうやら木製の風見鶏の一生(?)を描いた前半、後半ではどうも金属製の風見鶏と男の意地を張り合う雄鶏の奮闘ぶりが優しい筆致で描かれています。

「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟哉」は芭蕉の句ですが、〝かなしき〟かどうかは章によってことなりますが「おもしろうて」とニッコリさせてくれた後、なにか人間の持つさまざまな感情を呼び起こしてくれます。
「二つ折りの恋文が、花の番地を捜している」という「蝶」、「眼病の養生をしている」「蜻蛉」さらには、いつも人間の言うことに静かに従っている「馬」では
「彼はやがてその半睡状態から覚めるのではあるまいか? そして、容赦なく私の地位を奪い取り、私を彼の地位に追い落とすのではあるまいか?」
という思いに取り憑かれています。
「たらふく食わせてやる。からだにはうんとブラシをかけ、毛の色に桜んぼのような光沢が出るくらいにしてやる。鬣も梳くし、細い尻尾も編む。手で、また声で、機嫌をとる。眼を海綿で洗い、蹄に蝋を引く」
と手入れをしているのに、馬の心はわかりません。
「彼は何を考えているのだろう。彼は屁をひる。続けざまに屁をひる」
だけなのです……。
「屁をひって おかしくもなし 独り者」
という川柳がありますが、馬にはその可笑しさに通じるものを感じると同時にそれを見ているルナールにはどこか
「咳をしても一人」
という尾崎放哉さんの句が浮かんできたりもします。

「私はもう、過ぎ行く雲を眺めることを知っている。
私はまた、ひとところにじっとしていることもできる。
そして、黙っていることも、まずまず心得ている」
と結ばれる最後に置かれた掌編「樹々の一家」に感じられる家族というもの、その営みの時間というものが静かに読む者の心にしみこんでくるように思います。

ふと思い立った時に、どこからでもいいので開いたページを読んでみる……。最初は単色に見える世界が、どんどん色づいてくる、そんな気がする一冊です。ボナールの挿絵がとてもマッチしています。
ところで岸田国士さんのあとがきに、モーリス・ラヴェルがこの本の中から5つを選んで作曲したとあります。でもルナールは「生来の音楽嫌いを標榜していた」そうで「初演に立ち会ったルナール自身は困惑した」とウィキペディアにありましたが『博物誌』にはどこか音楽を感じさせるものがあるように思います。ルナールのイメージした音楽とラヴェルが『博物誌』から触発されたものがずれていたのかもしれません。これもまた、たくまざるユーモアなのかもしれません。

書誌:
書 名 博物誌
著 者 ジュール・ルナール
訳 者 岸田国士
出版社 新潮社
初 版 1954年4月19日
レビュアー近況:これを書いているとき、東京音羽は暑く晴れ渡っていますが、文京区に大雨洪水警報が発令されました。いきなり降ってくるのでしょうか?

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.09.04
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=3791

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