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コロナ禍で探した死生観/生きていると言えるのか【1分記事】

小学2年の夏、二度と起き上がらない曽祖母を前に、死や生に漠然とした疑問を持った。

どうせ死ぬのに、なぜ生きるのだろう。

死とは生の延長線上にある。
正反対の現象のように扱われているが、死は生の最後の一部だ。
唯一平等に与えられたイベントだ。





コロナに罹り、もしくはコロナが引き起こす二次災害によって命を落としたひとたち。
彼らがが残していった遺物を見て、産まれた意味を考えた。



ひとは皆それぞれ違う資質を持ち、何かに活かし死ぬまで磨き続けなければいけないというミッションがあるのではないだろうか。

資質を才能に成長させられるのは、他でもない自分自身だ。
資本主義にマッチしたお金を生む才能かもしれないし、誰かのこころの拠り所を作る才能かもしれない。
亡くなってからもなお生命の残像を残し、記憶の中で生き続けるひともいる。
病気などで道半ばに亡くなったひとも、その後の医学や何かの改善に繋げられ、次の命を助けている。

わたしにはそんなものないというひと。
今はまだ目の出ていない才能が、もしくは花開いているが本人が気が付いていない才能があるはずだ。

得意なことや好きなことに尽くさず、ただ何となく心臓が動いている状態は、生きていると言えるのだろうか。





生きるとは自分の才能を見つけ磨く事だ。

死とは生の一部、最後の瞬間だ。


(自殺については別途じっくり書きます)

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