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テントはウチかモノか ~土足でエアベッド事件@キャンプinホーリーランド~

久しぶりに「異文化に出会うことで自文化を知るんだなぁ」と実感した事件が夏休みのキャンプで起きたので記録しておきます。

(私にとっての)事件が発生したのはイスラエル人の知人を交えた子ども連れのキャンプ。早めに到着してテントを設営して、ベッドになるエアマットを膨らませておねしょ対策のシーツを敷き、ひと段落した頃に、友人を通じてその日初めて会うイスラエル人ご家族が到着しました。

初めましての挨拶の後に、お互いに自己紹介。知人の子どもたち(9歳、8歳)は裸足で遊びに駆けていき、それぞれの家族が食事作りやその他の雑事をしている中、うちの子どもたち(4歳、6歳)はうちのテントの中で裸足で飛び跳ねて遊んでいました。

誰でもどこでも気さくに話しかけるイスラエル育ちだけれど、人に打ち解けるのに時間がかかるうちの子どもたち。「こらー テントでジャンプしないで!(一度エアマットに穴が開いてつぶれたマットで寝たことがある)」の注意も空しく、でもその分雑事ははかどるので放置していました。

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しばらくしてふと見ると、さっき会ったばかりの知人の子が一緒になってテントの中で飛び跳ねている。そしてその子が裸足で泥交じりの地面を走り回っていたのを見たばかり。私は瞬時に頭に血が上り、止めに入っていました。「(ヘブライ語で)だめだめだめ、テントでジャンプしないで!!」日本生まれ日本育ちの私には土足で寝具の上を飛び回られることが我慢できなかったのです。

キョトンとした表情で私を見る知人の子ども。その表情は「この人何を言ってるんだろう?」そして、「なんで?」と聞き返してきました。「なんでこんな当たり前のことに『なんで?』って聞かれるんだろう」と思いながら、「エアマットが破裂したら困るから」と答えました。(私のヘブライ語能力の限界)

異変に気付いた夫(イスラエル人)がやってきて、「まぁまぁ、子どもが打ち解けて遊んでいるんだからいいじゃないか」と言い、なぜこれを容認するのかとショックを受ける私。そこにその子のお母さんも来て、「テントって最後に寝るために入るところだから、頻繁に開け閉めして出入りするところじゃないのよ」と諭してようやく子どもたちはテントから出ました。

その後夕食の支度を続ける中、ふと見るとさっきの子と別の子がうちのベッドで寝転んでいる姿を発見。そこにはうちの子はいません。言われようのない不快感で「もう、お願いだから出てって!」とヘブライ語で言うと再度キョトンとした顔で「なんで?」と尋ねられました。

また「なんで『なんで?』って聞かれるんだろう」と頭が真っ白になりながら、「私が嫌な気持ちだから」と答えると、少し間を置いて「ふーん オッケー」と言って子どもたちは出て行きました。

ちなみに、子どもたちのキョトンとした様子は、「サラミが乗っているピザを出されて、著しく気分を害した人」を想像してみてください。多分、「なんで?なんでこの人怒ってる?」という印象になると思いますが、そのくらいの不思議そうな感覚で子どもたちはキョトンとしていました。

イスラエルで75%の人口を占めるユダヤ人の生活習慣に大きく影響するユダヤ教の宗教規程で「乳と肉を一緒に食べてはいけない」というものがあります。初めての人が会う場合や大勢の人が集まる場合は各個人の信条に配慮して肉を乗せることはまずなく、トマトソースとチーズだけのピザを頼むことがほとんどです。この規定は厳密で、レストランも肉を扱う店、乳製品を扱う店に分かれます。(卵や魚、穀類や野菜果物は中立なのでどちらの店でも提供可)

肉または乳製品の店で、相反する分類の食品提供は厳禁。家庭でも肉・乳製品それぞれに冷蔵庫内の保管位置、オーブンや電子レンジ、フライパンや鍋などの調理器具やお皿・スプーン・フォークなどの食器まで全て分けられています。(規定を守るかは各家庭、個々人の判断になりますが)

そうやって規定を守り、「清浄」を保つ人にはサラミ乗せピザは「不浄」な食べ物になるけれど、それは規程を知らない人にとっては「そうなの?」という感覚になると思います。家の中でも土足が基本で育った子にとって、家の中が土足禁止な日本の習慣は知るはずもなく、「なんで?」という感覚になったと思います。

確かに子どもたちは飛び跳ねてはいなく、私がお願いしたことは守っていたわけで、子どもに対して大人げないと思いつつ。またこうしたオープンさがないからうちの子はカウンセリングその他が必要だと言われるのかと落ち込みながら、キャンプは終わりました。

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帰り道の車の中で夫に顛末を話し、自分のできる限りのヘブライ語で伝えても通じなかったことを泣きながら訴え、もっと強い言い方をすればよかったのかと憤ると、夫が「もっとアサーティブな言い方にすればよかったんじゃない?」

「例えば?」と聞くと、「(ヘブライ語で)ちょっとちょっと、跳ばないで。ここ、僕のベッドだから。僕のベッドにいてほしくない。やりたかったら自分のベッドでやって。」

その言葉で、天から光が差してきたかのように、「そっかーーー 私、自分の領域に(文字通りの)土足で他人に入られたから不快だったんだ(跳ばれたことより)」と意識していなかった自分の気持ちが見えてきました。

想定外の出来事が起こった時に、母国語ならもう少し出来事を咀嚼して適切な言葉を選べたかもしれません。でも、何が問題の核心なのかを正確につかみ、状況を俯瞰して外国語で言葉を選び、感情を交えず子どもに伝えるというのはとても難しい。多言語環境で子どもを育てるうえでは、こういう状況がこれからも起こるでしょう。怒り、混乱している時に夫が黙って聞いてくれたことが、意識していなかった自分の価値観への気付きに到達させてくれたことに気付きました。

テントが私にとってウチだったとは考えてもみなかったけど、小さい頃から「誰が、何をしたいのか」を常に聞き、個人の意思を尊重するイスラエル。「こんな当たり前のこと」という枠から出て、「私のベッド」という言葉を使っていたら、ウチとソトという概念を持ち出さなくても子どもにも恐らく受け入れられたと思います。

同時に、イスラエルでは疑問に思ったことは相手が誰でも質問すること、そしてこの地では「生めよ育てよ」という旧約聖書の言葉を礎にするように、子どもを育てることの重要度がとても高く、子どもがすることはかなりの許容度で受け入れられていることを認識しました。

そして、テントを撤収する際にエアマットを片付けた後、靴のままテント内に入っていた夫の姿を見て、テントは私にとってウチだけど、夫にとってはモノなんだということへの気付き。異文化の中で暮らすことは今まで自分でも気付いていなかった意識下の価値観に出会うことなんだと改めて認識しました。

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