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2a-4. 読解方針:主導的な問いを文書について問う3/3—読解方針—

前回のエントリー:2a-3. 読解方針:主導的な問いを文書について問う 2/3 —第二水準の要約—

3. 読解方針の導出

読者の問い:「どうしたら読めるか」

 この会は、「他人が書いたものを、もっときちんと読めるようになりたい」という欲求を持った人たちのために設置されたものです。ところで、「どうしたら本が読めるか」という問いは、読者だけのものではありません。

文書作成者の問い:「どうしたら読める(ように書ける)か」

 読者がこのような課題を設定する前に、まず文書作成者たちがこの課題に取り組んだはずなのです。つまり、読者である我々の目の前にあるその文書は、文書作成者が「どうしたら読めるものを書けるか」という問いに取り組んだ帰結として、その回答として産出されたものであるはずなのでした。
 この指摘もまたトリヴィアルなものであり、異論の出るようなものではないものでしょう。しかしこの点をシリアスに受け取ると、私たちの読解の方針をもう一歩限定することができます。というのは、「文書作成者は、読者が読むことができるものを書かなければならない」という要請が文書作成者に課す制約は恐ろしく強力なものだからです。その深刻さは、読者にとってのそれの比ではありません。
 「読むことができる」とは、〈読者が - 読者に利用可能な資源を使って - 文書に対処できる〉ということです。そうであるからには文書作成者は、文書を構成するための資源の非常に多くの部分を、〈自分が想定している読者が利用可能であるはずだ と当てにできるもの〉から調達しなければなりません。もう明らかでしょうが、文書作成者が課されているこの強力な制約を、私たちは、読解のための強力な方針として使うことができます。

読解のための技法的な問い: 文書制作者は〈どんな資源を/どのように〉使っているか

 つまり我々は、「どうしたら他人が書いたものを読むことができるか」という我々自身の目標となる問いの手前でまず、文書作成者自身が取り組んだはずの「どうしたら他人に読めるものを書くことができるか」という問いに定位することができ、そしてこの問いを、我々自身のために、「文書制作者は、読者にも利用可能であるはずの どのような資源を使って〈読めるもの〉を作成したか」という問いに変換することができます。そして、この、

  • 文書作成者が利用可能な資源は、その文書の想定読者が利用可能な資源でなければならない

という、文書作成者を強力に拘束する制約を使うことによって、

  • その文書では、どんな資源が・どのように 使われているか

  • その資源は、読者にも著者にも利用可能なものか

という問いを、読解を進めるための技法的な問いとして入手することができます。

どんな資源を?:利用可能な資源の例

 以上が、私たちの基本的な読解方針の一つの定式ですが、ここで、文書作成者が一般に〈自分の読者が利用可能であるはずのもの〉と当てにできる資源の例のうち、トリヴィアルなものをいくつか挙げておきましょう。まず最初に挙げるべきなのはもちろん、日本語の文書の場合であれば「日本語運用能力」という資源です。その延長線上で以下のようなものを列挙できますが、実際、ここに挙げたものを文書のなかで提示されたとき、我々は それをすぐにそのようなものとして把握することができるはずです(し、できなければなりません):

  • 文の文法的構造:主部、述部、修飾部…

  • 文書の各種要素間の関係を表示する表現

    • 接続表現などのマーカー

    • 接続表現の組み合わせ

      • [列挙]第一に/第二に…

      • [対比]一方で/他方で…

      • [譲歩]なるほど/しかし…

  • 文書の慣習的な構造的要素

    • 目次

    • 部-章-節-項-段落、見出し、引用、注など文書構造の要素

    • 句読点

  • 話題を構造化する慣習的フォーマット:

    • 〈問い/答え〉、〈課題の提示/課題の実行/実行の帰結〉

    • 〈例/例を使って言いたいこと〉

    • 〈引用の前置き/引用/引用の敷衍/引用から得られる洞察の提示〉

 予備作業B1-b(趣旨・課題を抽出する)では、ここに挙げた例のうちの〈課題の提示〉・〈問い〉を使っていたわけです[→第二水準の要約]。それは、「文書の主題的構造を提示する」という課題は、一般に、課題や問いの連関を提示することによって果たすことができる(ので、実際に一般にそうされている)からです。もちろん文書作成者は他のタイプの資源(たとえば知識)も当てにしており、そうしなければ文章は書けませんが、或る本を読み始めたばかりのこのステージでは、私たちはまず文法的資源や慣習的資源の方を重視しています。というのは、文書作成者も同様の状況におかれ、同様の対処をしているからです。──そして/だから、目次は文書の先頭に置かれるのです*。

*ちなみに、「目次」もまた先人たちの創意工夫の産物であり、長い年月をかけて定着した社会的慣習です。少し歴史をたどれば、目次のない時代や、目次を文書の先頭におくと決まっていなかった(!)時代もありました。「本を読む」とは、伝統に乗って読む──という仕方で伝統に参加する──ことでもあるわけです。(当たり前)

どのように?:「実践の記述」への準備

 私たちが採用した読解方針は、

  • 「そこで何が行われているのか」という問いに言葉を使って答えを与えることを介して「そこに何が書かれているか」を把握する

というものでした(以下では、この問いに答えを与えることを「実践を記述する」と表現し、得られた答えを「実践の記述」と呼ぶことにしましょう)。一方で、我々は「そこで何が行われているのか」という問いに対する答えに言語的表現を与える、という活動を日々の暮らしの中で頻繁に行っていますが、他方でそれをいつもやっているわけではありません。特に、本を読むときにそうすることは少ないでしょう。
 前エントリでは、文書制作者が「私は場所AでBをするつもりだ」と述べた箇所を拾うという作業をおこないました。これは、まずは著作の概要を把握するためにおこなっていたわけですが、実は「実践の記述」の準備という意味もありました。
 「私は行為Bをするつもりだ」という発言は以下の2つの意味で「実践の記述」ではありません。この発言において発言者は行為Bをしていません(やっているのはBの予告です)し、そしてまた、発言がなされた時点でまだBは行われていないのですから、その意味でもここで「Bが記述されている」わけではありません。それはそうなのですが、こう予告したからには、著者は本文のしかるべき場所で「Bをする」を実際に行うはずであり、その箇所に対してなら、「著者はそこでBをしている」というのは適切な記述になるでしょう。この意味で、文書制作者の予告は、読者である我々が読書中に行うことになるだろう実践の記述の例を与えているはずなので、これを見れば「実践の記述」が具体的にはどんなかたちを取るものであるかを把握しやすくなるはずです。別言すると、我々は文書制作者が予告においておこなっていることを使って、「実践の記述」の練習をおこなうことができるはずです。

 というわけでやってみましょう。
 まずはすでに例として使った「二つの部に関する予告」を振り返ってみましょう。

  • 【要約的記述】本書の主題は思考である。

  • 【手続的記述】本書はこの主題に、[L1a]「じょうずな思考とは何か」を明確にし、[L1b]私たちが考えることが下手であることを踏まえたうえで、[L2] 思考の力を増強するノウハウを提供する、という仕方で取り組んでいる。

 著者が予告したことをきちんと実現している場合には、この手続的記述は適切な「実践の記述」になっているでしょう(そうなっていない場合、著者が悪い)。
 目次の階層を「部」から「章」へと、一段下がってみます。2つの部の扉に記された予告はこういうものでした。

戸田山本-章と「第Ⅰ部のねらい」からの抜書

この表に序章の文言を加えるとこうなります:

戸田山本-章と「第Ⅰ部のねらい」からの抜書+序章からの抜書

 これを見ると、「[L1a]「じょうずな思考とは何か」を明確にする」のために、第1章から第4章が使われていることがわかります。「第1部のねらい」を要約しながら、両者を〈上層/下層〉の関係にまとめ、上層[U]と下層[L]の番号も振り直してみましょう:

戸田山本-要約の階層化

 [U1]を4つの部品を使って実現しようとしているというわけですが、やるべきことがここまで明確に書かれており、要素の数も少ない場合には簡単に図化することができます。

戸田山本-要約の階層の図化

 そしてここでも、

  • 上層は下層に対して要約的記述を与えており、

  • 下層は上層に対して、部品と手順による記述を与えている

という関係があること、また、

  • 上層は、下層の部品のそれぞれが、どうしてその位置に・その順番で並んでいるのかの理由を与えるとともに、

  • 上層は、下層の部品と手順によって実現される

といった相互に構成的な関係があることが容易に見て取れるでしょう。「何が行われているのか」を言葉で分析的に語ろうとするときにはいつも、この〈上層/下層〉のペアを特定することを気にかけていなければなりません。

 ここまで使ってきたのは「私は行為Bをするつもりだ」というタイプの発言でした。こうしたものに対してなら、「発言者が行おうとしていることはなんですか?」という質問に言葉を使って答えるのは簡単です。なにしろそれはすでに言葉で(=行為B)表現されているのですから(だからそれは練習に適していたわけです)。
 しかし私たちが読書中に実際におこなわなければならないことは、これよりも一段難しい作業です。私たちは、文書制作者がなにかを行っているところを見て、そこで何が行われているのかを概念的に特定し、「そこでは行為Bがおこなわれている」といった仕方で文を使って表現しなければならないわけです。この言語化作業は、実際に行われていることの在り方に応じて難易度が変わるだけでなく、その作業にどのくらい慣れているかによっても難易度が大きく変わります。
 そしてまた、ここまでお話では、考察の範囲を「読み始める前・読み始めたばかり」のステージに限定していたので、あまりにもトリヴィアルなことばかりを話題にしているように見えたかもしれません。先を読み進み、検討の水準が章から節へ、節から段落へ、段落から文や語へと進むにつれて、我々の作業は一般的な慣習だけを頼りに進めてはいけなくなります。──より正確にいうと、文書のその都度の局面において行われていることが、どのような慣習を・どのように使いながら行われているかをその都度特定しなければならなくなります。

 以上で「目次を読む」の項は終わり、次回から「コメントを書く」に進みます。

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