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『家族の灯』

夏の初めに書いた、ごくごく短かい小説です。少し手直ししたのでこちらにあげてみます。
どうしようもないままならない状況のなかで人は、自分の感情といかに折り合いをつけていくのだろうか。最近はずっと、そんなことを考えています。


 さてどうしたものか、と円(まどか)は思った。

 一歳の弟、陸は朝から機嫌が悪かった。一口サイズに握ったおにぎり、それの何が気に入らなかったのか、食べるでもなくべたべたとこねくり回した挙句、洗面台で手を洗わせようとするとそれを嫌がって泣き喚いた。散々泣いて疲れたのか、おもむろに食卓に座り直し、今はもごもごと米粒を口に運んでいる。

 母は、陸がこんなに大声で泣いても、部屋から出てくることはなかった。

 陸のべたべたする手を拭ってやりながら、円もまたもごもごと、自分で握ったおにぎりを咀嚼する。今日で、母が父の部屋に引きこもり始めて五日が経つ。
 日に日に食欲が落ち、ついには食卓に座るどころか部屋から出てこられなくなった母。円は、今平気でご飯を食べている自分に嫌悪感を覚える。

  *

 父、円にとっては正確には義父にあたるその人が、会社で倒れたのは四月二十四日夕方。くも膜下出血だった。高校三年生になりたての円は、学年全員に向けて行われていた進路説明会の途中で、深刻そうな顔をした担任に呼び出され、他の生徒にちらちらと横目で見られながらあたふたと体育館を出た。担任が私用の車を出してまで都心の病院へ送り届けてくれ、事の重大さをなんとなく悟る。
無言の車内を漂う空気は奇妙な温度感で、円は今、自分がどんな顔をすべきなのか分からずにいた。

 病院に着いた時、担任は後部座席を振り返って円に言った。
「気をしっかりね」
その時、担任と目が合った。ああこの人は私を哀れんでいる、と円は気付いた。
受付で父の名前を言うと、教えられた場所はICU、集中治療室だった。大きなガラス戸の前に陸を抱えた母がいて、母は何故か、円を見るなり
「ごめんね」
 と言った。円にはその謝罪の意味がなんとなく分かってしまった。
「お母さんは、なんにも悪くないでしょ」
 母は少し困ったように微笑んだ。黒目の表面が波打つように揺れている。円はもう、何も言えなかった。
「ごめん円、陸を見ててくれる? ICUって六歳未満は入れないんだって」
 いつも夕方に昼寝をする陸は、今も静かな寝息を立てている。母から陸を受け取り抱えなおすと、幼児の熱くて無防備な重みが円との隙間をぴったりと埋めてのしかかる。
父はこの時すでに昏睡状態に陥っていた。ICUにて母は、予後なんの後遺症もなく社会復帰できる可能性は低いだろう、と医者に言われたそうだ。
「くも膜下出血って、大体半分が死んじゃうんだって」
 ICUから戻った母は、ぽつんとそう言った。二人はそれ以降話すべきことが見つけられずに、しばらくの間ガラス戸の前から動けずにいたが、陸がぐずりだすと母はきっぱりとした口調で、帰ろうと言って歩き出した。
 マンションに帰り着くと、共用玄関のカウンターにいる管理人が、いつものように「おかえりなさい」と声をかけた。いつもなら明るくそれに答える母が、今日は曖昧な笑顔で通り過ぎる。そのあとをそそくさと追いながら、母は大丈夫なんだろうか、と思った。しかし、円がその心配を口にすればそれは言霊となって、母が大丈夫ではなくなってしまうような予感がした。

 父の訃報を知らせる電話が入ったのは、翌日の未明。
「はい、朝一で病院に向かいます。」
 殆ど寝てはいないだろう母の声は疲れていたが、決して取り乱すことはなかった。電話を切ると、母の声によって浅い眠りから目覚めていた円に、
「だめだった。雄一さん、だめだったって」
 と静かに伝えた。円は何も言えないまま、母の背中をさすることしか出来なかった。
 母が自分の母でなくたって、円はその不遇をあまりにもやるせない、と思ったことだろう。ましてや昨日の母はきっと、その不遇に円が翻弄されることに対して謝ったのだった。円はそんな母の気持ちを想うと、自分のことのように辛くて心が痛くてたまらないのに、憎らしかった。私が生まれなければ、母は一人で苦労ばかりする羽目にならなかったんじゃないか、とこれまで何度も考えたことを、また考える。母がいっそ全てを円のせいにして、当たり散らしてくれたりすれば、円は幾分か楽になるかもしれなかった。
 しかし、母はずっと優しかった。

  *

 高校卒業間際に妊娠が分かった母環(たまき)は、それをなんとか周囲に隠し通したまま卒業する。血縁上の父である人は、母の前から逃げたそうだ。環は両親に中絶を勧められたが反発し、その半年後十九歳で円を生んだ。それ以来、円が高校生になった年まで一人で円を育て上げた。
 母は元来真面目な人なのだろう。若い母親ゆえの世間からの偏見もあったろうに、円自身がそれを感じたことは無く、円にとって母は安心の象徴たり得る、立派な母親であった。円が保育所に通えるようになると実家から自立し、それ以来母はその親戚筋と疎遠になっている。働き始めた会社では、よく気の利く社員として周りから信頼されていたようだ。そうして、職場の上司であった義父、河合雄一と再婚することとなったのが二年前の夏。陸が生まれたのが昨年春、母が三十六歳、円が十七歳になる年のことだ。母はその年、父の勧めもあり退職した。

 陸の名前は、父が付けた。
「大陸がすべての始まりだからな、楽しいことも愛しい人も、あったかい家も、すべては陸の上にあるんだよ」
 と語った父の目は真剣で、母はそれを聞いて
「壮大なんだからこの人は」
 と言って呆れ、そして幸せそうに笑った。

 二人で暮らしていた時だって、幸せだった。
 けれども、再婚して陸が生まれてからの母のあの柔らかな安心しきった笑顔を、円はいつも新鮮に思ったのだった。

 *

 告別式では、多くの参列者が陸に「偉いね」などと声をかけた。陸は少し人見知りをしつつ、慣れた頃には笑顔を見せることもあり、そのいたいけな様子が、また弔問客の悲しみを誘うようだった。円は陸に対する気遣いに頭を下げつつ、この人たちも私たちのことを可哀想だと思うのだろうか、と考えた。そういうことを考える自分に嫌気がさした。

 父が死んでからの母の行動には、まるで無駄が無かった。父の訃報を各所に知らせ、通夜を行わない簡単な葬式にすると決め、葬儀屋と段取りをまとめた。そういった時間の合間を縫って、母は様々な書類、戸籍謄本やら所得証明書やらをかき集め、遺族年金がもらえるよう手続きをした。残っている住宅ローンの相談なんかも、管理人を通して保険会社と進めていたようだ。
母は止まると死んでしまう魚みたいに、とにかく忙しく立ち回った。円はその間、陸の面倒を見ることで気を紛らわせた。

 遠方から駆け付けた父の両親は、人目を憚らず泣いていた。母はそんな二人の手を取り、父が生前どれだけいい夫であったかを述べ、感謝した。父の両親はその間もずっと泣いていて、母の声を聞いているのかいないのかもよく分からず、見ていた円は苛々した。母を気遣う素振りが無い二人の様子に、父の両親は父と母の結婚を手放しで喜んでいたわけではなかったことが思い出され、それはやっぱり私がいるからなのだ、と円はさらに苛つくのだった。

 父は、円がよく家事をすることに対して、本当にしっかりした子だと褒め、さらには母のこれまでを支えたのは円だと礼まで言ってのけるような、よく出来た寛大な人だった。
「結婚したからには、円にだって今後苦労はさせないし、円が大人になったってずっと応援しているからな」
 と言った父の優しい声音を、その時の堪らなく嬉しかった気持ちを、円はしっかり覚えている。父のことが好きだった。
 それでも、父を育てた二人が母以上に取り乱し泣く姿に苛立つ。母の立場のやるせなさを想ってどうしようもなくなり、自分の存在が憎らしく思えてきて、円はその度に陸をむやみに抱きしめるのだった。

 母は、この日までとても気丈に振舞った。

 *

 父の葬式が済んだ翌日から、母は次第におかしくなっていった。昼間は絶えずうとうとしていたかと思えば、夜はろくに寝付けない日が続く。髪も梳かさず、最近は一日中寝巻を着ているようになった。食卓に座っても、お母さんはいいや、と言ってろくに食べない。家事をするのにも段取りが悪く、家中をやたらとうろうろしているので、途中で見かねた円が家事を代わる。陸の面倒を見ていても、陸が少しでも不機嫌になってくるとパニックになって、円のことを呼ぶようになった。そういう時は決まって
「ごめんね、なんにもできなくなっちゃった、ごめんね」
 と謝るのだった。
 円はそんな母を落ち着かせ、陸のことは任せてと言うことしか出来なかった。
「円は本当に頼りになるね、ああもうお母さん、円がいなかったら……」
 母はそんなことを繰り返し言うようになり、やってきた五月と入れ替わるようにして、父の部屋から出てこなくなってしまった。それに伴って円は、家事や陸の世話の一切をこなすようになった。

 母は、父が死んでから円が高校に行っていないことにすら、気付いていないようだった。
 高校には父の葬式が終わったことを報告して以来、殆ど連絡を入れていないが、おそらく「父を亡くした生徒」を気遣ってのことだろう。いつになったら登校するのだ、といった旨の連絡は来ないまま、世間は五月の大型連休に入った。
 連休明けには流石に、高校から連絡が来るだろう。この家の状況を、どう説明すれば良いのかが分からない。第一、弱った母をどうしてあげれば良いのかも分からない。
 円は、生活って面倒くさいなと思った。
 高校のこと、その先の進路のこと、同級生からきっと腫れ物扱いされてしまうこと。母がまた働くことになったとして、陸の保育園はすぐには見つからないのだろう。遺族年金は満十八歳で受け取れなくなるらしい。私は……。
 ここまで考えて、円は思考を放棄した。

 とにかく今は、陸を生かさなきゃならない。

 生活は、静かに残酷に、ただそこにあった。

  *

「あえ!」
 陸の幼く短い人差し指が、ウイダーインゼリーを指し示す。マルチビタミン、エネルギー補給。
「そうだね、これママにどうぞしよう」
 散歩がてらの日課となった買い出し。母は多分、生前の父と食べたような、温かな食事が喉を通らないようだった。比較的食べてくれるのはゼリーやカロリーメイトで、陸はそのパッケージを覚えてしまった。それ以外に卵やパンやレトルト食品を、リュックに入る分だけ、母に渡されたクレジットカードで買う。このクレジットカードがいつまで使えて、紐づけされている口座の残高がいくらなのか? そもそも引き落とし日がいつなのか? 円にはいまいち分からない。

 連休明けの水曜日、十一時の住宅街は静かだ。アスファルトを踏みしめるよれたミズノのスニーカー。円は幼い手を引いて、最低限の生活を踏み固めている。
 急ぐ理由も無いので、陸が歩きたいときには歩かせ、半分くらいは円が抱っこして、少し汗ばみながら歩いた。
 マンションに着くと、普段管理人のいるカウンターには誰もいなかった。そのことに円は安堵する。高校に行けていないだけで、どこにいても誰に会ってもなんだか居心地が悪い。

 階段を上って二階。先ほどの安堵もつかの間、ちょうど円の家の前の廊下を、せっせとモップ掛けしている管理人が目に入った。管理人は、陸を抱く円に気が付くと、いつも通り声をかけてきた。
「おかえりなさい」
 円は会釈を返す。そのまま玄関先で陸をおろし、鍵を出そうとリュックをごそごそしていると、思いがけず管理人は円に話しかけ続けた。
「あの……生活のことで、何かお困りじゃないですか?」
 円は手を止め、そこで初めてちゃんと管理人と目を合わせた。白髪交じりの長い髪をキュッと束ね、いかにも働き者、といった風情の中年女性だ。優しげで控えめな声。その中に密かに、けれども確かに二人を哀れむような色を見て取った円は、反射的に
「大丈夫です」
 と言い切る。
「お父さんが亡くなったって伺っていたから、その、お母さんは今大丈夫なのかな? あなたはほら、高校とかって今は……」
 ああこれ、育児放棄を指摘されているのか。
 四人が揃い満ち足りていた私たち家族と、一人が欠けて一人が機能不全で神様がくしゃみをしたら吹き消えてしまいそうな今の私たち。たった数週間の間に生まれたその落差に、円は目が眩んだ。と同時に、あまりにもあっけなく消えそうになる家族というシステムは、小さな子供のごっこ遊びと大した違いが無いように思われて、少し笑ってしまいそうになる。円は、状況が読み込めずにきょとんとする陸の髪を撫で、フッと息をついてから、もう一度、今度は強い意志をもってして言った。
「大丈夫です、お気遣いありがとうございます」
 玄関のドアノブに手をかけながら、父がいない今、母を安心させるのは私なんだと、円はひとり決意した。

 家に入ると玄関には母がいて、円は少し驚いた。久しぶりにまじまじと母を見る。案の定やつれて少し痩せ、肌は青白くくすんで髪はパサついていた。けれども背筋を真っ直ぐに伸ばし、母はしかと立つ。その目は円の背負う重たい荷物に向けられている。
「ままぁ!」
 陸は嬉しそうに、靴を脱ぐことも忘れて屈んだ母の腕に飛び込んだ。
 円は、父の部屋が外廊下に面していたことを思い出していた。
「聞こえてた?」
 円の問いに頷いた母の目が、すこし滲む。
「円、無理させたね、ごめ……」
 その先を聞きたくなくて、母に言わせたくなくて、円は母に抱きついた。二人に挟まれた陸は、きゃっきゃと笑う。陸の体温はやっぱり少し高くて、二人の輪郭をじんわりと溶かしてその隙間を埋めてしまえるような絶大な力があった。
 我慢できず、円は子供のように泣きじゃくった。そして、違う、そうじゃない、とさっきの決意を書き換えた。

 三人で、この手で、ここにまた安心を作るんだ。

 二人の時も、四人の時も、それぞれの現実を幸せに生きていた。三人でだってまた幸せになれる。私たちは可哀想じゃない。

それぞれの体温がじんわりと三人を巡る。その円環の中に、新しい安心が灯り、小さな家を温めていく。

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