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23.4度の憂鬱

地球は、その公転軸に対して約23.4度傾いたまんまで、自転している。
その傾きを正す術を私たちは持ち得ないし、地球はまだしばらく、私からすればほぼ永遠とも思われるような長い時間、自転しながら公転し、公転しながら自転する。それはつまり、非常に現実的な問題として、私がこの地表で生きる限りずっと、1年の中で変動する気温だとか日照時間だとかに振り回され続ける、ということを意味する。私はもちろん抗いようもない。

その回転は今年も変わらず、冬を連れて来た。

私はこの数年特に、巡る季節のその速さにどうしても追いつけなくて、春は心がさざめくような肌が粟立つような不安を抱えながらクシャミをしていて、夏はぐわんと下がる血圧に足元をすくわれ、秋は多少元気だけれどやっぱりクシャミをしている(アレルギー体質なのだ)。
そして、問題は冬だった。
嗚呼冬が来た、と実感する日が毎年かならずやって来る。朝、それまでの全てをリセットしたみたいな、誰かがアイロンをかけパリッと糊をきかせたみたいな、まっさらな冷気が街に満ちているのだ。その中へ出て行ったその瞬間からとめどなく私の身体に染み込んでくる冷気は、私の心のどこか柔らかいところを氷漬けにしてしまう。私の外部で生起する現象を知覚する為のバロメーターが凍りつく。息を吐けばふうっと白く世界が滲むように、息する度に私の思考は、その道筋は深い霧の中に見えなくなる。ただしこの霧は、冬が去るときまで晴れることはない。冬の澄み切った青空の下にいようと、常に私は霧の中にいる。頭が、働かない。何も、見えない分からない。
夜と夜の隙間が狭くなればなるほど、その隙間をくぐって濃くなった太陽の光が私たちに降り注ぐ。強い暖色。その眩しさに、鮮やかさに目が眩んで太陽に背を向け歩いているうちに、あっという間に日は傾いて、私の影は長く長く、その背丈をゆうにとび超え伸びていく。進む先に、ひと足先に夜が落ちている。影はどこまでも伸びて、この冬は一生終わらないんじゃないか、と思う。憂鬱がどこまでも続く気がして、そう思った瞬間に夜が目の前の全てを塗りつぶす。
冬は、大体そんな感じで日々を繰り返す。冬が来てからしばらくすると私の身体は――そう、心だけではない――あちこちが氷漬けになっていて、動かない。朝も昼も夜も無くなって、全てが冷たくて重たくて暗い、ただ冬という塊になって私を押し潰す。

動けない私の手の届かない所、朝と夜の繰り返しを経て冬はその鋭さを増してゆく。
澄んだ冷気、人や車や川から立ちのぼる白い霧、窓を伝う冷たい水滴、伸びる影、斜めの光。街の側面は橙色に染まり、反対側には夜が息を潜めている。動かない身体で目だけで捉えた光景は美しく、今が冬であるとひたすらに伝えてくる。私の針は振れない。目の前の景色が、美しさの記号として、ただそこに在る。ただ在ることを、真っ黒な私の目が捉えている。

朝が来ても真っ黒な目は、知っている。冬が終わることも、そうすればまた冬がやってくることも。全ては繰り返しの円環の中にある。
暖かい春がやって来ても冬が消失することはない。憂鬱が消失することもない。ただ身を潜めるだけである。

23.4度の歪みから生まれた波の中、私は浮いたり沈んだりしながら流され続ける。

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