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我慢と辛抱

言葉は、似たような使われ方をする言葉でも、微妙に異なったニュアンスを持っている繊細なものだと思う。

日本語も例外ではなく、似たような単語でも実は微妙に意味やニュアンスが異なることがよくある。

その一つが「我慢と辛抱」。

一見、2つの意味はどちらも同じように見えるだろう。
それぞれ「耐えること」を表しており、辛かったり苦しい時に折れずに耐えることを描写する際に使われることが多いかと思う。

実は、パーソナルヘッドスパなるものを1年前くらいから始めているのだが、そこのマッサージ師さんに仕事に関する相談をしたときに「それは我慢だね〜」と言われた。

我慢と辛抱とは何が違うのか、ヘッドスパで整理整頓された頭の中で考えてみても明確な違いを定義できなかったため、マッサージ師さんの言葉の続きを聞いてみることにした。

「どこに向かってるかわからない、いつまで耐えればいいかわからない状況って辛いでしょう。」

ヘッドスパ師

なるほど、目的やゴールが自分の中で明確であり、そこに向かって進んでいる最中に遭遇する壁や痛みは「必要な過程」であり「いつか乗り越えられる」ものである。

一方で、目の前の辛さが「いつまで耐えればいいものなのか」「果たしてこの辛さに意味があるのか」が見えないと終わりが見えない砂漠をひたすら歩き続けているようなものだ。

おそらく、前者を辛抱と呼び、後者を我慢と表現するのだろう。
僕は国語学者でも言語学者でもないので、この微妙なニュアンスの違いを定義、提唱する立場ではないのだが、どこか自分の中で腹落ちる結論となった。

よく「逃げずに我慢すること」が美徳とされており、そこに疑問を持ったりピボットを図ろうとすると風当たりが強くなる冷たい世界を我々は生きている。
確かに、自分が目指すと決めて腹を括ったことを目指す過程で必要な辛さを避けるほど世の中は甘くないのだが、その「見据える場所」と直面している辛さがリンクしていないと感じたら、立ち止まり、自分の中で振り返ってみるのは大いに価値のある行動だと思う。

ぜひ、我慢ではなく、辛抱に直面し、そのプロセスを楽しめる時間を送っていきたいところだ。

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