フリーランスとお金の話。 寄付編
温泉旅館に泊まった時のこと。
風呂に入り、いい気分で部屋に戻ると、財布がない。泥棒か!必死であちこち探していると、廊下にまさに、自分の財布を持っているオッサンがいる。
「落し物ですよ」と返してくれるかと思ったら、素知らぬ顔。そこで穏やかに「そのお財布、わたしのなんですけど」と申し出る。ところがオッサン、怪訝な顔で、「これは僕のですよ」と言い返す。たしかになんの変哲も無い財布だが、傷やヘタリ具合、どう考えても「マイ財布」である。
気の短い性分なので、喧嘩になる。「俺のだ」「あたしんだ」とさんざん噛みつきあった挙句、オッサンが投げるように返してよこす。その態度がくやしくて我慢ならず、「こんなもん、くれてやる!」と、財布をオッサンのまぬけづら目がけて、思いっきり投げ返す。
オッサンは「ブス!馬鹿野郎!」と言いながら、キャッチした財布を持って去っていった…。内心「しめしめ」とほくそ笑みながら。
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これはうろおぼえだけれど、佐藤愛子先生のエッセイにあった話だ。自分の財布なのに、言い争っているうちに悔しくなって泥棒に投げつけ、結局、損をしてしまう。ラディカルな美しき怒りの達人、愛子先生らしいエピソードで、憧れる。地味で凡庸なわたしとは大違いで、憧れる。
だが、窮鼠猫を噛む。わたしも、似たようなことはする。それは、どうしようもない(と思う)仕事にかかわってしまった時。最初はどうしようもあったのに、いろんなことがあって、どうしようもなくなる時もある。
何をして稼いでも、金は金。労働の対価である。それなのに「こんなことで稼いだ金で、1粒の米も食べたくないよ!」と思う仕事が、たまにある(米は食べるより液体で摂取する機会が多いけど)。
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この場合、「ギャラ、いりません」とやるのは社会人として阿呆すぎるし、たぶん、かなり、もめる。そのあげく「おかしな人認定」がくだって、クライアントを失うばかりか、狭い出版業界で暮らしにくくなるだろう。
そんなときわたしは、ニコニコしていつもどおりにお金をいただく(というのは嘘で、気がつけば自動的に振り込まれてるし別に笑わない)。そのあと、もらったお金をそっくりそのまま、全額寄付する(日本赤十字はクレジットカードでも寄付できます)。
不思議なことに、寄付をしたあと、その仕事のことは忘れてしまう。
どんなだったか/どんな点がクソだったか/誰に/何に/どう腹が立ったか、今もぜんぜん思い出せない(たぶん歳のせいではない…はず)。
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こんなの貧乏人のくせに酔狂で、性格が劣悪だというのも自覚している。もしも社員やアルバイトさんを1人でも雇っていたら、絶対にやらない。人に労働の対価を渡すなら、寄付なんかする余裕は1ミリもないだろう。
もしも養うべき家族がいたら、絶対にやらない。責任をもつためには、お金がいる。そしてスペックが高くないわたしが責任を果たすとしたら、余裕しゃくしゃくではできない。
要するにこれは、働く仲間もなく、養う家族もなく、正真正銘のフリーランス、プロフェッショナルおひとりさまであることの、やけくそじみた醍醐味なのである(良い子は真似……誰もしませんね)。
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「寄付はクソ仕事の全額」が鉄則なので、多少、ドキドキすることもある。たとえばギャラが高いときとか、印税契約の時とか。
印税契約とは、売れればそれに比例してお金がさらに入ってくる。つまり、仮にその仕事が本で、売れて重版になったら、そのたびに入ってくるお金を寄付しなければならない。万一ベストセラーになって、ガバガバお金が入ってきたら、「やっぱりこのお金、もらっておきたいかも」という、あさましい欲が、じわっと出てしまうかもしれない。
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フリーランスになって、この手の寄付をしたことは、一度や二度じゃない(わたしはとても偏狭で性格が悪い)。そして幸か不幸か、クソ仕事で売れた本は1冊たりともない。
「売れるな」と呪いをかけている……わけじゃない。もしもそんな力があったなら、別の仕事をしようと思う。
フリーランスはフリーだから。
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