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徒然なるままに、4回目の命日。

2023年3月28日、4回目のお母さんの命日を迎えた。

4年も経てばお母さんがいないことには慣れたけど、生きてて欲しい気持ちは1ミリも変わらない。会いたい気持ちは、蓄積されていく。

この4年は、お母さんがこの世にいた証を残し続けるために、私が思い出話をパンくずのようにちょっとずつあちこちに散りばめてきた。体はなくても、お母さんのかけらだけでもこの世にあり続けるように。そんな4年だった。

起こる全ての出来事に意味がある、とか、お母さんのために前を向かなくちゃ!と何度も声をかけられて、うんざりした時もあった。(もちろん相手は悪気があるわけでもなければ、むしろ私を励まそうとしてるのは重々承知。ごめん。)

そういう言葉は1ミリも、私の脳みそに入り込んでくることはなかった。
むしろ、そんな言葉への拒絶反応で返事すらしんどくて、愛想笑いで口角をきゅっとあげることが精一杯だった。そういう言葉は、私には必要ない。だって私の知っている、耳にしたことがある言葉では、どうにかなるくらいの感情は私の中にはなかったから。

私のお母さんを失った喪失感は「悲しい」「寂しい」というこの数文字に収まるほどのもんじゃない。もっと痛くて、重くて、私の心にも収まりきらないほど大きい。時々出ちゃう涙は、心に収まりきらない感情なんだと思う。それくらい、体からさえも溢れるくらい大きい。

あと、胸の真ん中を突き刺された痛みも、胸の真ん中が空っぽになってしまった冷たさもあった。それなのに、どうしてお母さんが死んだんだ!っていう腹の底から湧いてくる血が煮えるような熱い感覚も。

そして、時間が経つにつれてその感情に慣れていく自分に、脳みそがこういった悲しみを耐えるために進化した所詮普通の人間なんだと感じる虚しさも。

しっかり私にも、先人たちの悲しみの対処の仕方がDNAに刻まれいて、私が大勢の中の1人で、特別でもなんでもなくて、しっかりサークル・オブ・ライフの一環って感じがまたなんとも言えなくて。

ネガティブな感情は「嬉しい」や「楽しい」「幸せ」といった感情をいとも簡単に追い越してしまう。「嬉しい」や「楽しい」気持ちが100あっても新鮮なネガティブな感情が1つ増えると、あっという間にその1つの痛みに全神経がそこに集中しちゃう。もうそれ以外考えられない。「楽しい」ことも「幸せ」なことも、見失っちゃう。「楽しい」や「幸せ」が消えることはなくても、完全に見失ってしまう。ポジティブな感情は軽い。ネガティブな感情は重くて、鋭い。(と感じるんだけど私だけ?)

ネガティブな感情は、すごいスピードで私の思考を追い抜いて行く。まともに考えられなくなる。やめてほしい。
(もちろん、この感情は必要不可欠で、優しさや思いやりとか寄り添う心が養われるので、必要なことではあることはわかっているけど、しんどすぎる。時折生きる体力を削がれる時があるからもうちょっとご容赦願いたい。)

ただ、やっと。ついに。4年間という時間をかけて、やっとネガティブな感情に思考が追いついてきた。目視できなかったドス黒い、重くて鋭い感情も、やっとディテールがなんとなく見えるくらいには距離を縮められた気がする。

私の思考を追い抜いて向き合うことができなかった私の感情は、私の後悔と懺悔の塊だった。お母さんと一緒に過ごした29年分の後悔と懺悔。ここでは、書くのもしんどすぎる、恥ずかしすぎることを、お母さんに投げかけてきた。その大盛り!てんこ盛り!の後悔たち。もう取り返しのつかない後悔のオンパレード。しんどい。

もちろん、お母さんがそんなこと幸せしかない天国でそんなこと気にしているとは全く思っていないけど。
でも、まだこの世に足つけて煩悩まみれで生きている私には、「私のために」お母さんに許してほしいことが大盛りである。

「お母さんはそんなこと気にしてないよ」とか、そういった誰かの言葉では私の後悔が癒えることも小さくなることもない。

でも、お母さんに「お母さんはそんなこと気にしてないよ」って言われたら、いとも簡単に私のこの感情は成仏することは間違いない。

言葉って「誰が」使うのかで宿るものが違う。
同じ言葉でも、その言葉を使う相手が、自分とどういう関係で、お互いにどんな想いを抱いているかで、受け取り方は全く違う。その言葉に宿る、目に見えない、言葉じゃない何かが違う。

だから、最初の「怒るすべての出来事に意味があるよ」「お母さんのために前を向いて」ってお母さんに言われたら、いとも簡単に私はドス黒い感情から解放されていたんだろうな。

でも、そのお母さんはもういないし、お母さんから許しを得ることはできない。私の中の山盛りの後悔と懺悔は、私が天国へ引っ越してお母さんに会う時まで心の荷物として最後まで持っていくしかない。
ただ、4年目にしてちゃんとこのコントロールできない、時々大暴れしちゃう感情が一体なんなのかを理解できたことで、小さくして心の隅に収納できた気がする。

もう消し去ることができないものなら、可愛い感情ではないけど、お母さんへのお土産くらいの感じで、思い出と一緒にしまっておこう。人生、最期まで仲良くしようよ。

そんなことを考えた、4回目の命日。

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