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上陸以来きょうまでの

武富一門 弟子の涼へ

お返事ありがとう。上海だよりとはまた趣ある歌を持ってこられましたね。♪ 拝啓ご無沙汰してますが僕はますます元気です→「上陸以来きょうまでの〜鉄の兜の弾の痕〜自慢じゃないが見せたいな」と、続くあの歌詞は佐藤惣之助だと知ったのは、やはり久世さんの向田邦子新春ドラマ『響子』で小林薫扮する石工の職人が歌うあの姿がふと思い出されてからですが、佐藤惣之助は六甲おろしの作詞家だと知ってはいても、あの上海だよりの作詞だとも知らなかったし、そもそも佐藤惣之助who?となって調べたら、琉球諸嶋風物詩集なんて詩集を出している詩人だったわけで、まだ戦前の琉球時代に佐藤惣之助が訪れて辻の女にぞっこん惚れ込んで、かの美しい詩を歌ったのがあの首里の近くの公園にあるからと一緒についてきて探訪しましたよね。君はあの公園が琉球王朝時代の王の別荘の跡地だということも、佐藤惣之助のことも知らずにいましたが沖縄県民でも知らないことはたくさんあるのだなあと思いました。

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佐藤惣之助の詩碑はとても立派な作りで、あの美しい詩は一枚一枚丁寧に焼かれていました。私はふと、琉球スタディと称して歴史を探訪していた時のことを、沖縄学の父・伊波普猷を訪ね歩き浦添の伊波普猷の墓碑を前に項垂れていた君の様子を思い出しました。「石工の仕事ってのは大事なんだ」と。浅く掘られ年月を経て風化し読みにくくなっていたあの墓碑にはとても大事なことが書かれているのだと。まさに「浅はか」とはそういうことなのだと。

そこから私が想起することは、石工の仕事、或いは風化されゆく情景でした。

いつだったかパイティティのP V撮影で渡嘉敷島の孤島で水中撮影をした際に、不思議な像を見つけたのを覚えてますか?好奇心旺盛な我々撮影隊が近寄ってその像を見ると「シブがき島」とペンキで書かれていました。あのペンキの文字がなかったらあの像がシブがき隊ともわからず、わかったところで、誰がだれなのかわかりゃしない。最もあれは石工の仕事でもなければ単なるセメン作りの石膏像みたいな物ではありましたが、それでもシブがき隊の引退メモリアル像と言われる物で、あれはあれでいいのかもしれません。それこそ時間と共に風化してゆっくり朽ちてゆく。せめてペンキ文字じゃなきゃ土台だけでも残ったとはいえ。

そんな風化されゆく中でも立派に残っている石工の仕事もありました。私が独自でフィールドスタディとして立ち上げた琉球スタディ沖縄学調査隊として浜比嘉島をうろちょろしていた際、琉球開闢の祖神アマミク(アマミチュー)の墓の高台の脇に、漢字だらけの不思議な古い石碑を見つけ狂喜していた我々。これは沖縄学に何か関連した物では?と、一生懸命指でなぞりながら解読したのが、その昔アルゼンチン移民が建てた石碑だったという、あの石工の仕事は見事でしたね。

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そして私はあの福建省福州にある琉球墓を訪れた際にみた墓碑をも思い出します。あれには衝撃を受けました。何百年もの時間を経てその中には文革という困難な時代もあったにもかかわらず、現存できていた。あの場所で墓守がずっと琉球人たちの眠る墓を守っていたこと。そしてそこには今でも読み取れるように墓碑はそっと故人に寄り添っていたのです。あの墓地で偶然知り合った永和さんの文革時代の悲話を重ねれば、いかに墓碑が生き残ることが大事だったかがわかりますよね。私は特に印象的だったのが、墓の周りの藪に荒らされ埋もれていた墓碑たちでした。その墓碑からも文字はまだ読み取れていたこと。そして沖縄では男女一緒には入れない亀甲墓に小さく一緒に並んで眠っていた番いの墓。現地の墓守人曰く、あれは夫婦の墓だと。おそらく、琉球人と中国人妻の墓或いは、一緒になれなかった仲の墓なのかもしれません。あの琉球墓にある墓碑のそれぞれが決して浅はかな石工の仕事ではない、異国の地で丁寧に大事にされていたことが印象的でした。

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それにしても、向田さんはよく石屋の話をお書きになられていました。寺内貫太郎も石工職人だった。『響子』では森繁久彌さんが石工の親方で、職人たちに小林薫、藤田敏八、柳ユーレイ、そして石屋の長女・田中裕子の寝たきりの夫役には断筆宣言した筒井康隆先生も。なんだか石に囚われた異様な人々の話で、新春向田スペシャルの中では異彩を放っていたと言われますが、私はあれこそが向田文学であり、久世さんがお好きな世界だったんじゃないかと思うわけです。なんたって、石を齧り舐め合いながら唾液まみれの石を口移しに接吻を交わす男女なんか見たとないですよ。黒柳徹子さんのナレーションで進行する向田作品を田中裕子さんが今回はよりちゃんがいいと思うって言ったのがきっかけで、口から内臓の分泌液が込み上げてきそうな緊張感の中、ナレーション録りしたっけ。久世さんがスタジオの前室で加藤治子さんと並んで座っていた私にぽろりと漏らした言葉で嬉しかったのが「洞口を向田さんに会わせたかったね」だった。微笑いながら治子さんも頷いていた。そこへ裕子さんがやってきてなになに?って。女3人で微笑ってるあの感じを目を細めて眺めてる久世さん。ふとそんな色付きの風景が冬の匂いと共に蘇りました。

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ああなんだか、丁寧な石工の仕事がみたくなりました。でもこちらはなかなかそれがなくて、新渡戸稲造庭園で見たあの名文句「我、太平洋の橋にならんと」の石碑くらいでしょうかね。

むすびに、私がとても好きな加藤治子さんと田中裕子さんが手紙の結びに書かれていた言葉を送ります。

「ご機嫌よくお過ごしください」「元気でいてよ」

微笑みが素敵な先輩たちには敵いません。それではまた。

1月26日朝、バンクーバーにて🐾 ヨーリー

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