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【書評】社会階級の間を旅した男――北欧ミステリの重鎮レイフ・GW・ペーション(久山葉子)

タイトル(原語) Gustavs grabb
タイトル(仮)   グスタフんとこの倅(せがれ) 
著者名(原語)   Leif GW Persson
著者名(仮)    レイフ・GW・ペーション
言語        スウェーデン語 
発表年       2011年9月 
ページ数      380
出版社      Albert Bonniers

 あるとき、英女王の側近でもある人物が、伝統的な上流階級のハンティングを催していた。招かれた客の中には、スウェーデンの有名作家の姿もあった。晩餐会の席で美味しいお酒に会話が弾み、作家はなにげなく、自分が尊敬してやまない父親の話を始めた。すると、そばに座っていたスウェーデン人の男爵が笑い出した。

「ずいぶんと慎ましいお父上だな。まさかきみがそんな家の出とは……」

 それを聞いて作家は激怒し、男爵の襟首をつかんだ。「外へ出ろ。身体じゅうの骨を折ってやる!」

 レイフ・GW・ペーションの自伝である本書に、こんなワンシーンがある。ペーションといえばスウェーデンでもっとも有名なミステリ作家の一人であり、犯罪学の教授として国家警察委員会の顧問を務めたほどの人物だ。テレビの犯罪番組でも長年ホストを務め、犯罪ニュースのご意見番として頻繁にタブロイド紙にも登場する国民的有名人である。

 しかし、彼の父親は肉体労働者だった。

 ペーションは1945年にストックホルムで生まれた。両親はともに深い森に囲まれたノルランド地方の出身だが、父親がストックホルムの鉄道敷設工事に職を得たため、結婚してすぐに首都に出てきていたのだ。母親は病気がちで、しかも虚言癖があって精神的に不安定だった。小学校に上がる前のペーション少年は、母親が家でゆっくり寝ていられるように、父親に連れられて工事現場に通った。父親の仕事仲間には可愛がられ、手先も器用で幼いながら工事の作業を手伝っていたという。

 少年はきわめて頭がよく、いわゆる神童だった。おまけにいたずらもしないお利口な子供だったのに、小学校に上がると担任の女教師からいじめ抜かれた。その理由はただひとつ――彼が労働階級の出身だったからだ。都心にある小学校のクラスメートはみな、中流階級の子供たちだった。

 中学・高校時代を過ごしたノッラ・レアール中等教育学校は当時男子校で、彼以外の生徒の親は医者や研究者など、知的階級に属する家庭の子供ばかりだった。そもそもその頃は、女子や労働階級の息子がLäroverketと呼ばれる中等教育学校に通うこと自体が珍しかった。この学校に通うことはペーションにとって大きなカルチャーショックであり、同時にこれまで知らなかった世界へと続く扉にもなった。

 現在のスウェーデンでは、すべての子供たちに均等な教育の機会が与えられている。どれくらい均等かというと、小学校から大学まで私立も公立と同様に学費は無料だし、制服や修学旅行のように、学校が生徒からお金を徴収するということもありえない。完全無料にすることで、学内で社会格差が生まれないようにしているのだ。本人の意欲と能力さえあれば、親の経済力に関係なく、学びたいことを学び、さらに上を目指すことができる。

 それは60年代から社会労働党が進めてきた教育改革の結果だ。特に1980年からは〝すべての子供のための学校〟というポリシーが明言化され、入学試験*や授業料の徴収によって入学する生徒を選抜することはしないし、学校内で成績別にクラスを分けることもない。つまり義務教育レベルではどの学校のどのクラスを覗いても生徒の知能レベルは様々だし、高校・大学へ進学しても親の職業は様々だ。子供たちは多様な背景をもつ仲間と毎日机を並べて学び、共に成長していく。

*高校・大学はそれまでの成績で上から入学が許可されるが、入学試験というものはない。

 しかしペーションの自伝を読むと、つい70年前はそれが当たり前のことではなかったことがわかる。スウェーデンの教育制度はこれほどまでに変わったのだ。親の世代が再生産(リプロダクト)されていく教育から、すべての子供たちに等しいチャンスを与える教育へと。

 何度も脳塞栓を起こしているペーションは、いつ死んでもおかしくない――と思われつつも今までしぶとく生きているのだが、彼が自伝を通して伝えたかったことはなんだろうか。〝すべての子供のための学校〟ができる前に、自分の能力と努力だけでスウェーデンの社会階級を駆けあがった男が。

 自伝のタイトルは『グスタフんとこの倅』。華やかな経歴をもつペーションだが、人生を振り返ってみて、その中でいちばん誇りに思っている肩書が〝グスタフんとこの倅〟なのだという。幼い頃、工事現場で父親グスタフの仕事仲間からそう呼ばれていたのだ。敬愛してやまない父親の息子であること――それが彼にとってのいちばん重要なアイデンティティだった。

 今のスウェーデンの子供たちは、恥じることなく自分のアイデンティティを自負できているだろうか。いい年をしたオヤジは、父親の職業を見下されたときに素直に激高できるだろうか。できるのだとしたら、ペーションがひとり孤独に闘ってきた時代は終わりを告げたのだ。男爵が労働者を見下していい理由など何もない――スウェーデンでは、そんな新しい時代が始まっていると信じたい。

(Yoko Kuyama)

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来週水曜日は、よこのなな さんがスウェーデンの本を紹介します。どうぞお楽しみに!



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