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アララギ派歌人・島木赤彦が詠んだふるさと〈諏訪のみづうみ〉

前回記事では岩波其残の企画展をとりあげましたが、もう1名、こちらの博物館常設展で知った文化人について紹介したいと思います。

2Fの決して広くない常設スペースで取り上げられていたのは、

島木しまき赤彦あかひこ(明治9-大正15)

施設の名前<下諏訪町立博物館・赤彦記念館>にも入っているくらいなので、きっと著名な方なのでしょう。

にもかかわらず、存じ上げませんでした。
まったく、知らないことばかりです。

そしてそんな無知な私にもわかるように、展示室入り口にやさしい説明文がありました。読んだところ、どうやら<アララギ>の基礎を築いた歌人であるようです。

なるほど、歌人。わたしの苦手分野ではないですか。
アララギということば、遠い昔に聞いたことがあるような・・・?

ふたたび説明文にもどると、

◆アララギ派とは◆
正岡子規のながれをくむ短歌流派で、短歌誌『アララギ』に倣った歌人をアララギ派と称する。

ーアララギ派短歌の特徴ー
万葉調
・生活密着の歌風
・写実主義

説明文より抜粋


ここで、<万葉調>ということばに一気にアンテナが立ちました!
万葉集に興味がある近ごろ、万葉調の短歌というものが一体どんな歌なのかとても気になります。


赤彦さん

島木赤彦(本名:久保田俊彦)は諏訪生まれ諏訪育ち。師範学校を卒業して教師となり、小学校の校長まで務めました。諏訪地域の教育改革へ取り組んだり、教師たちの指導にあたる立場にもあったそうです。

熱心な教育者であった一方で歌作りにも精を出し、ついには教職を辞して上京。以来、アララギの編集に携わりながら東京と信州を行き来して、万葉集の講演会なども行っていたようです。さいごは諏訪の地にもどり49歳で亡くなりました。

展示室では、赤彦の足跡をたどるように教職時代の資料に始まり、自筆の短歌や書簡(同時代の歌人・斎藤茂吉とも親交が深かったようです)、出版された本などがショーケースに並んでいました。


(左)自筆短歌

雪しろき 山へさし出つる 夕月の
ひかりの底に 氷る湖かも

なるほど、万葉調の写実主義とはこういうものかと、とてもしっくりきました。寒くも美しい諏訪の冬景色がすんなりと想像できます。こういう感じ、けっこう好きかもしれない。

赤彦が生きた明治から大正の時代、諏訪はいまよりもっと寒く、冬には諏訪湖も完全に凍っていました。その氷は厚く、氷上で騎馬隊や飛行機の訓練もおこなわれていたそうですよ。(万が一割れたら・・ちょっと、いや大分こわい)


諏訪湖氷上の飛行機
展示写真より


それからもう一首、心を掴まれたのがこちら。

みづうみの 氷は解けて なほ寒し
三日月の影 波にうつろふ

大正13年 47歳作

この歌は、赤彦の代表歌でもあるそうです。

そう、信州の春はおそい。
諏訪湖の氷が解けたからといってすぐに暖かくなるわけでもなく、しかしそんな寒いなかで、湖面にゆれる三日月のかげを眺めていたのですね。

歌の素養がないので、テクニック的なことは全くわからないのですが、単純に「美しいなぁ」と感じました。それはわたしが信州育ちで、情景をくっきりと想像できるからなのかもしれません。

赤彦はこの2年後に胃がんでこの世を去りますが、病床でも作歌を続けます。

信濃路は いつ春にならん 夕づく日
入りてしまらく 黄なる空のいろ

大正15年2月

3月、信濃路の春をみることなく、赤彦は旅立ちました。享年49歳。

いまの感覚からすると、まだ若いのに・・・となりそうですが、教育者として、またアララギの編集・自らの歌集の出版・万葉集の研究と、全力で生きた様子が伝わってきました。

短歌も、いいものですね。

今回、島木赤彦という郷土出身の歌人を知ったことで、短歌がすこし身近なものになりました。なにやら難しげな遠い世界のものではなく、風景画のような歌もあるのだなと。

情景を思い浮かべることができる歌はよみやすい!ということがわかったので、まずは図書館で赤彦の詩集をかりて、パラパラとめくってみようと思います。


1月6日、波うつ諏訪湖
とても凍りそうにない・・


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