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勁(つよ)い王女と優しい泥棒〜実写版アラジン〜

(もう我慢できない!)
振り返った彼女の顔には勁い意志が宿っていた。
この映画のクライマックスは魔法のランプを手に入れるところでも、魔法の絨毯で飛ぶところでも、悪者を倒すラストバトルでもない。
王女ジャスミンが自分を連行する2人の男を振り切り、そして観客の方へ振り返って、自分の意志を歌い上げる一曲だ。
このジャスミンの「つよさ」には「強」よりも「勁」のほうがしっくりくる。

映画はとても楽しく始まった。
ランプの魔人役のウィル・スミスが人間の父親として登場して、昔々のお話を我が子に始めるところから。
その父親が語るお話が「アラジン」だ。

父親のお話に誘われて訪れた砂漠の国で、観客が最初に巻き込まれるのは追いかけっこ。
主人公の2人が追っ手から逃げるアクションシーン。
生身の人間が、ひたすら走って渡って跳んで、やっと逃げ切ったと思ったらまた追っ手に出くわして…
往年のインディー・ジョーンズや、ジャッキー・チェン映画を見るようなハラハラドキドキの楽しさ。
ここだけでもアラジンを実写にした価値がある。

そして何よりもアニメよりも圧倒的に進化したところ、それが王女ジャスミンの意志と生き方だ。
実写版アラジンのベースはおとぎ話。だが、その中でされている問題定義は現代社会に対してのもの。
王女ジャスミンは現代アメリカの女性であり、世界中の自立した女性だ。

ジャスミンが自分の意志を表明するクライマックスシーンはとても感動的だ。
だがどうしてこれが感動的なのか、どうしてこのシーンがクライマックスになり得るのか。
このシーン自体が現代社会への問題定義なのだ。
もし、ジャスミンが王女ではなく男性の王子だったら、このシーンは存在する必要がない。
仮に存在したとしてもこれほど強く演出されたクライマックスシーンにはなり得ない。

王女ジャスミンは映画の最後で、アニメ版のジャスミンが到達しなかったところへ行く。
彼女の立場と責任感と勁さを考えれば当然の結論。
性別は関係ない。一人の大人としての彼女の責任の取り方に、僕は心の中でひざまづいた。

それに比べれば主人公の泥棒、アラジンの行動原理はとても単純だ。幼いとも言える。
幼いアラジンだけど、彼が主人公でいられるのは彼が優しいからだ。
「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」
まるでフィリップ・マーロウの名台詞が乗り移ったようだ。

王女はその勁さで国を守る。泥棒はその優しさで数人の人を救う。
実写版アラジンはそんな映画。
さあ女性も男性も、全ての人がクライマックスに刮目せよ!もちろん映画館で!!

ラストはウィル・スミスの語りで始まった伏線回収まで楽しめます。

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