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「花は心、種は態(わざ)なるべし」 世阿弥

種となる大地、体という形態、そして動作の技がなければ、心という花は外へと咲かない。

他にも。魂の成長を花にたとえているのは、ルドルフ・シュタイナーの『オカルト生理学』だ。

人体組織のすべては、一切の地上過程の小宇宙として、新しく花開きます。そして人間の魂が変化を遂げて美しく花開くとき、地球生命体はすべての存在に対する人間の生きいきとした関心、共感情を通して、その目標に達するのです。その目標のためにこそ、熱が地上の人間の生体に与えられたのです。

『オカルト生理学』

こうした先人たちの言葉を胸に、体や形、形態学、動きにこだわって生きている。

体が魂の型なら、霊はなんだろう?
メイ・サートンなら、霊は魂の花瓶、と言うかもしれない。
花は人の目に映り、手に触れ、生けられることで、はじめて花と認識される。
人は自らの認識で自然界に歩み寄らない限り、自然界の簒奪者でしかない。

人間の生理もまた、ほかの動物とは霊的な意味において、まったく異なる存在である。

人間の生理には、自らを知り、純粋意識を体験する能力がある。
自らを知り、自らを聞き、自らに触れ、自らを見、自らを味わい、自らを嗅ぐ。
こうした自己参照的な状態を通して、五感と行動の領域のすべてにおいて、自らの構造を管理することができる。

この自己参照的的意識は、トニー・ネイダー『人間の生理』の根幹をなすキーワードだが、こうした文章を読めば読むほど、日本の古事記に近づいていく。

ヒトが語ることで現れてくるもの。
その機序が、古事記では神名によって構造的に示されている。

形態学でいうと、そこには鉱物的、幾何学的な形の起こりと発展がある。
さらに、植物的、生命的な形の起こりと発展がある。
動物的、運動的な形の起こりと発展は、そのままダンス形態となる。

運動的な形の起こりと発展は、呼吸と発声とも重なる。

わたしたち人間は、息をして歩き回りながらしゃべったり歌ったりする、宇宙の星屑なのだ。


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