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私が思う「いい人」は「誰かにとって都合のいい人」だった話

「いい人」でありたいと思って、生きてきました。

誰かの役に立てる人でありたい、自分がいい人でいることで雰囲気が良くなるならそうしていたい、「いい人」であることは私の価値かもしれない。そう思って、生きてきました。

周りに認められたいとか、褒められたいとか、そういう気持ちもあったと思います。でも、それよりも、自分が「いい人」でいることの効果というか、自分も周りも心地が良くなるという理由で、「いい人」でありたいと思って生きてきました。


でも、私の中の「いい人」像には、「誰かにとって都合のいい人」の要素が混ざっていたように思います。

”頼まれたら断れない”
”一度「YES」と返事をしたら後に退かない(退けない)”

それが私だと思っていたし、そんな私だからこそ経験させてもらえたことや、声をかけてもらえたことも、たくさんあると思っています。

だけど、自分を疎かにして誰かの希望のために自己犠牲を払ってしまったことも、たくさんあると思います。


誰かが悪いわけでもなく、もちろん私自身が悪いわけでもなく、「そういう風にはまってしまった」のだと、今は思っています。


「選んだ道を正解にする」というのは私のポリシーですが、その考え方も「誰かにとって都合のいい人になる自分」を直視しないための言い訳になっていたかもしれません。

いつも何かに疲れていたけれど、疲れていること自体にも気づかないふりをしようとしてきたし、ましてやその原因が何なのかを考えようともしませんでした。

たぶん、逃げてただけです。


今回、これを言葉にできたのは『エッセンシャル思考』を読んだからなのですが、見たくないものを見てしまったショックはそれなりに大きく、まだまだ全然消化しきれていません。

覗き見してすぐに蓋をしてしまうのも気味が悪いので、ちゃんと解放してあげて、次に進みたいと思います。


何か書かずにはいられなくて。
乱文失礼しました。

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